Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

合理化と多様化

 多様性は生物の進化において必要不可欠の過程であると言えるだろう。すべての生物が進化の方向を同じとすれば、環境の変化によりそれらは同時に滅亡する。種の存続ほど大きな話ではなくとも、一人一人の個性と言うものは天の配剤のごとき多様性の恵みであるとすら思える。
 ところがこの多様性と言うものは、何かを一気に成し遂げようとすればその進行の妨げにもなりうる。無駄を省くという考えの下では、最も効率的な唯一の解が求められるからである。現在の資本主義経済は、短期的利益を主眼とするが故に多様性よりは合理性に重きを置いている感じがする。それは、多くの場所でも言われているように企業としての存続よりも一時的かつ急激な成長を重視しているということでもある。

 さて、多様性と合理性の両者の間には結果を重視するか過程を重視するかにおいて大きな隔たりがある。結果のみに着目するのであれば、当然最短でかつもっとも合理的なルート一つが正解であるのは間違いない。無論、ゲームとは異なる現実の世界では正解に至る正しいルートなど誰にもわからない。だからこそ、過程において種々の試行錯誤がなされるし、その結果として無駄が生まれる。
 ものづくりに関わる人間からすれば、無駄も成果を生み出すための大切な糧であることは知っている。もちろん、無駄の中にも本当に不必要であったと思えるようなものもあれば、結果を追い求める中では当然必要となるだろう無駄もあるだろう。更に言えば、不必要だと思っていた無駄でさえ時と場合によれば豹変することさえある。失敗の中から別の用途にも散ることができる成功が生まれた例など、数え上げれば枚挙にいとまがない。

 結局、無駄というものは時間軸を長く取れば取るほど分類する意義を喪失し、時間軸を短く切り取れば切り取るほど存在が明確化されるものなのだ。合理性とは、この時間の裁断による断片から全体を見通そうという行為でもある。
 しかし、人間の生きる時間は有限であり経済活動の時間区切りはもっと短い。それ故に、全体を悠長に眺める余裕を持つことは神様でもなければ容易なことでは無い。有限の時間の中に生きる人間としては、真の意味での合理性とは単純に物事の一断面のみならず、歴史や経験に加えて先を見通す洞察力を添付することで組み上げられるべきものなのだと私は思う。だとすれば、現代社会で一般的に用いら得る合理化という言葉は必ずしもその理想形ではない。

 一時的な結果の最大化は、条件が変わればすぐにシステムに変調をきたす。環境の変化に対して小刻みにシステム変更を繰り返していこうというのが現在のトレンドのように思うが、社会が複雑になればなるほど、あるいは社会の変化が激しくなればなるほどに困難なタスクとなる。合理化とは特定の環境に最大限フィットしようという特殊化である。特殊化は、そのピーク状態をキープしようとすれば綱渡りのようなスリルを味わい続けなければならないし、多くの場合その状況の長期間にわたる維持は困難である。
 もちろん、だからと言って逆に多様性のみを追い求めて結果を何も残さなければ、こうした企業は市場の荒波に容易に淘汰されてしまう。多様性というものもまた、必ずしも脳裏に描くものがその真の姿を言い表しているものではなさそうだ。

 だとすれば、維持可能な冗長性を保持しながらもその時点での最大化を目指すという形が望まれることになる。現代社会のグローバル企業などでは、この冗長性を市場支配力の強化と言う選択肢を狭める形で叶えようとするケースが多くの場面で見て取れる。一時隆盛を誇ったサムソンが近頃変調をきたしていると報道されるようになってきた。サムソンに良い面も少なからずあると思うが、一気呵成の市場支配は必ずしも企業としての存続確立の拡大を意味しない。
 同じようなことは芸能人・タレントと呼ばれる人たちにも当てはまる。一時的なゴリ押しによる露出拡大による人気は掘り起こせたとしても、勢いに任せた露出の拡大はかえって存在価値の消費を速めてしまう。露出上手く抑えながら価値を維持するという戦略を取るタレントや俳優も少なくない。

 こう考えたときに、現在は世界の趨勢を握りそうな勢いのある感じで語られるグローバル企業も、あまりに短期間での利益追求に特化してしまえば自らの寿命を縮めてしまうことになりかねない。生物でもそうだが、成長する時期と言うものは確かに存在する。しかし、恐竜のように一生成長し続ける生物はそれほど多くはない。長く生き続けるためには単純な合理化ではなく、多様化を上手く取り込んだ合理化を目指さなければならない。そして、これは企業でも人でも同じことなのだろうと思う。