Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

老いと夢

夢を見るのは若者の特権のように言われる事も多いが、現実には人間は一生夢を見続ける。もちろん老いて後もそれを人に語るかどうかは知れないが、心中には何らかの夢を抱いている。ただ、それを放言しないだけの分別は年齢と共に重ねているのが普通であろう。
そもそも、夢とは自分が生きていく上での原動力の核である。夢にも現実的なものから夢想的なものまで様々有り、とてもではないが叶いそうにない夢もあろうし、あるいは生活の中にある些細な夢が積み重なられていることもあるだろう。また、自分自身に対して結果が返る夢もあれば誰かのために願う夢もある。
夢と一言で言っても、その広がりは実に自由で鷹揚だ。若者の特権なのは、如何に荒唐無稽な夢であってもそれを広く話す事の出来る特権を持っていることだ。老いてなお広言を吐けば、単なる嘲笑のそしりを受けることになるのである。

しかし、最初にも書いたが老いたからと言って夢を見ない訳ではない。常識という大きな枷によりそれを口に出来なくなってしまっているに過ぎないのだ。故に、私は老いてもなお夢を見られる事を悪い事とは思わないし、年寄りの冷や水と切って捨てるのは世間の了見が狭すぎる。
実際のところ、真に夢を抱けなくなったときには人はもはや死ぬしかないではないか。それは夢を叶えた上での満足に包まれてか、夢叶わずに失意の中でのそれかは知れないが、全ての望みを絶たれたならば人は実質的に死んだも同然である。こんな風に言えば、多くの人が「今の私がそうである。」などと言うかもしれないが、全ての望みを絶たれることなどはそうそう無いし、保有する時間が長ければ長いほど再起の道は広がっている。その人達は夢を見ることができないのではなく、気づくゆとりを持てなくなっているに過ぎない。自分で遠ざけているだけなのだろう。真に夢潰えれば、惰性で生きていく事すら苦痛となるのではないだろうか。

こう考えると、「死」と「夢」は未来に対して相剋の関係にある。ただ、人は容易に夢を捨て去る事は出来ない。仮に自分の時間が残り少なくなったとしても、それを自らではなく誰かのために委ねる事ができる。すなわち、誰かの笑顔のために生きる事も出来るのだ。
夢というのは目的のように感じるが、私はそれを手段だと思っている。それは自らの生きた証を表現するための手段なのだ。自らの生きた証は自分が生きていた事を記憶する人により受け継がれていく。私達は、自分の存在を後に残る人々に記憶してもらいたいのである。それこそが自らが生きてきた証であって、生きる事の究極の目的ではないかと思うのだ。
もちろん反論もあるだろう。例えば自らの痕跡を消し去りたいと思う人もいるだろうし、記憶されることではなく自己の満足が全てだと思う人もいると思う。ただ、夢が目的でないと考えるのは究極の目的が別のものであろうが変わらない。

老いる程に人生の残り時間が少なくなっていく。それはすなわち自らの存在を社会に知らしめる時間が減少することでもある。金を得る事も、有名になる事も、権力を得る事も、結局のところ多くの人に自らの存在を記憶してもらうための方法でしかない。尊敬と共に記憶されるか、恐怖と共に記憶されるかはわからないし、それが自らの死後も続くかどうかは予測などできない。
ただ、どちらにしても容易に為し得る事ではない。加えて老いは夢を小さくする。夢が消えるわけではないものの、残存時間の逓減は人々の不安をかき立て焦りを生む。大きな夢を実現できる可能性が低くなれば、より可能性の高い夢に希望を振り向けるのは当然のことであろう。

自分の存在を記憶して貰いたいとして、そこには3つの軸がある。それは、「広さ」と「深さ」と「長さ」である。最後の長さに関して言えば、自らの手が最も及びにくい項目であり、それこそ神の手に委ねるしかないだろうが、前者の2つについてはある程度は自分の努力により実現できる。一人の人が深く知ることを望む人もいれば、より多くの人に知って貰いたいと思う人もいるだろうが、結果的には自己の満足は「深さ」にあるような気がしてならない。「広さ」を求めるのも「深さを」求める代替措置としてあるように感じている。
生きることの究極の目的が死後の社会に残る記憶だとすれば、老いは夢を削っていくが、若くして死すよりはより多くの人と関わる時間を得ていたことをもって経てきた時間を価値あるものとして考えるべきかも知れない。
もちろん、老いてなお足掻くことも決して恥ずべき事ではない。ただ、目的を明確に認識できずに生と地位に執着するとすればそれはまた別問題であろう。

今週のお題「夢」