Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

全ては過程にある

小中学生の内ならばいざ知らず、大人になればなるほどに結果が求められるのはこの世の常である。口先では結果より過程という言葉も用いられるが、それは一定以上の結果を残した中での妥協に過ぎない。日本は欧米と比べるとどちらかと言えば再チャレンジに厳しい国だとされるが、それは建前の過程重視主義と実体としての結果重視主義の齟齬が生み出す帰結なのかもしれない。
社会に出ればノルマや成果に追われ、到達しなければならないという切迫観念は人の精神に強く作用する。中にはそれを糧として大きく成長を遂げる人もいるだろうが、それ以上に圧力に屈してしまう人もいる。普通に考えれば多くの人はこうした結果に向かう過程を負荷として感じており、仮にその重さに屈しなかったとしても多くのストレスを受ける。

山登りを例にして到達の喜びを語ることもあるが、その喜びは達成した結果により得られるものかと考えてみると、必ずしもそうではないと感じることも多い。往々にして、私達は結果だけではなくそこに至る過程そのものからこそ喜びを受け取るのである。
パズルでもゲームでも最初の内は簡単なものを選択することもあるだろうが、慣れればそれでは物足りなくなる。成果の価値は過程の困難さが指し示す希少性により定まる。過程の容易な結果は誰でも到達できるであろうし、小さな満足感は得られてもすぐに飽きてしまう。すなわち、私達は結果を目指しながらもその過程に大きく影響を受ける。
だからこそ人々は困難にチャレンジするのだが、目的と過程を天秤にかけて考えた時私達が真に得たいものは目的たる結果ではなくそこに至る過程の経験ではないか。だとすれば、目的の設定はその苦しい過程に向かうためのモチベーション維持のための存在であり、あるいは次のあたらなチャレンジに向かうための通過点にすぎない。

それでも私達の生活で直面する様々な場面では結果は過程に勝る。それは厳然たる事実であって、こうした大きな矛盾こそが私達に過度のストレスを与えるのであろう。
なぜこのような違いが生じてしまうのだろうか。社会においても一個人の場合と同じように本来目的は一通過点に過ぎないはずである。想像できる答えとしては、社会において人々がすべき役割は必ずしも担当する個人が思い描くシナリオに基づいていないと言う点が挙げられるだろう。頭の中では目的を理解しているつもりでも心が疑問を感じているとすれば、あるいは与えられた目的がその人のモチベーションを高めるだけの何かを所持していなかったとすれば。
昇給・昇進や進学など大きなモチベーション向上に寄与する目的も多々あるだろうが、それでもいつもがいつもそうという訳ではない。義務的な目的に向かっては心が呼応し難い。人は皆感情で生きる動物であり、その感情が理性を否定する限りにおいて葛藤は生じ続ける。

おそらくその葛藤そのものが過程に属するのだろうが、私達はそのことに気づかないことも多い。目的に到達したかどうかの結果ばかりに気持ちが向けば、過程というもう一つの重要な要素を見落としてしまう。
よく、「仕事を楽しめ」と勧められることも多いが、それは如何に過程を楽しむかということでもある。結果にこだわるのではなく、結果は結果として目的に据えておいて過程に全力で取り組む。それこそが本来のチャレンジにおける愉悦ではないのだろうか。そもそも目的は達成してしまえば急速に興味の対象としての価値を失っていくものである。その時には次の新たな目的を探さなければならない。道程としての目的に意味は当然あるのだが、結果的に考えればそれ以上に経験としての過程の方がずっと重要なのだ。
それでも、私達はついつい近視眼的な結果に重きを置いてしまう。それは過程には自らの現在位置を確認できる確固たるポイントがないためではないかと思う。自ら思い描く工程において自分は一体何処まで来ているのか。それをわかりやすい指標を見ることで確認する。それが小さな結果を追い求めてしまうのだ。
そして、小さな結果ではなく大きすぎるそれを課してしまうが故に迷ってしまうこととなる。

過程を楽しむためには、小さな結果という道しるべをたくさん置けばよい。それは他人に評価されるためのものでは無く、自分で自分自身を評価確認するための指標である。
私達は人生の目的として、結果ではなく過程を得るために生きているのだから。