Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

混沌の活用

若者が、将来の道筋が見えてしまったとやる気を無くしたなどと伝えられた時代は随分前のことだと思うのだが、今では逆の意味で将来が見えなくなった。サラリーマンですら安穏とはできないのだから。道筋が見えないという意味ではやる気を出してもおかしくないはずだが、今度は将来を悲観してやる気を無くしかねない。
もっとも、それでは悲観しない時など無いではないかとなりかねないが、この安定した社会において悲観のみが若者達を覆うとすれば笑ってばかりもいられない。人類は、安定して生活していけることを目的としてきた。言葉上は、「持続可能」とか「サスティナブル」とかいろといろな修飾は為されるが、結局なところ落ち着きを求めてきたのである。それもできることならなるべく豊かな落ち着きを。
現実、今の日本を見ていれば震災や原発問題から政治の混乱など問題自体はいくらでも出てくるのだが、それにも関わらず世界的に見れば非常に安定した社会でもある。すなわち、私達の目的である落ち着きはレベルこそ不十分かも知れないが形の上では達成している。願いを達成した後に訪れるのは満足感ではなく目標を失った虚無感というのは良く聞く話でもあろうが、現状はまさにその状況下にあるようにも見える。

現実には社会は成長を続けなければならない。これは経済的な意味だけでなく人間心理的な意味も含んでいるように思う。私達の心理的な成長が一体何を表すのかはなかなか難しいが、それでも心の成長がないという事は現状に満足して維持が精一杯になってしまう。それは、人生において攻めの姿勢を捨てて守りに徹するという事でもある。
人生が攻めばかりでは草臥れてしまうが、維持ばかりではつまらない。私達は未来を得るためにチャレンジを続けていくのであろう。成長とは、未来を得るために足掻いた結果のことではないかと強く思う。結果として社会的な成功を得たかどうかはあまり大きくは関係しない。それよりも同じ場所をぐるぐると回り続けるのではなく、新たな一歩を踏み出すことを続けることにこそ成長の糧となる。

ところが、十分に安定した社会においてはそのチャレンジすべき場所を探すのにちょっと努力が必要になる。安定しているとはいえど完璧な社会など存在しないから、私達の人としての成長にふさわしい場所やチャレンジはいくらでもある。ただ、それが目の前に向こうから現れてくることがないのだ。それを探さなくてはならないし、仮に何かを見付けてもそれが自らを賭けるに値するかどうかで悩んでしまう。
社会が混沌に覆われていれば、日々の安定は得られないが逆に自らを賭ける事柄については得やすくなる、と言うか得なければやっていけないことにもなる。すなわち、前に進むための後押しが状況により為されるのだ。もちろん、それは私達が望むべき社会の姿ではない。それにも関わらず、進むべき道へのサポートが為されるのだ。
それ故に、大いなる変革は安定した=停滞した社会において望まれやすくなる。それは社会に混乱を呼び込み、私達が作り上げてきた安定は壊される。ただ、その混乱は未来に向かう心理を背中から押すのだ。もちろん現状維持を望む大多数からは大いなる反発を受けるであろう。

現状を維持しながら徐々に変化を進むのか、それとも一時的な混乱を覚悟して大いなる変化を望むのか。社会全体の話となると答えを出すのは難しいが、個人レベルであればそれは不可能な話ではない。自らを安定に埋没させるのは容易ではあるが、そこから踏み出す勇気を持ちたいならば敢えて混沌を周囲に呼び込むことも一つの方法であろう。
それは、安定を打ち破るものであり休まる時もなくなるかも知れない。ただ、再び安定を掴む過程において私達は心の成長を得るのではないだろうか。やる気がないフリができるのは、将来を悲観しているのではなく今ある安定からの離脱を恐れているのだから。
もっとも、外的な混沌が近づいているかも知れないことは心に留めておきたい。

「それでも、社会が今以上に失敗に寛容にならなければチャレンジを謳っても続かない。」