Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

マスコミバランサー論

マスコミにイデオロギーがないというのはあり得ないが、妥当性の云々は別にしてマスコミが彼らなりのやり方でバランスを取ろうとしているのはわからなくはない。しかし、マスコミは同時に話題の問題については深い洞察なしに煽りを行ってしまう習性を持っている。この習性は、何度反省しても変わる事はない。何しろこの習性は商業メディアとしての業のようなものなのだから。
すなわち、マスコミの中でもこの両者は常に対立しその中でのベストバランスを求めようとあがき続ける。何か問題が生じるたびにその問題に触れてはいるが、根本的に回避しようがない問題であり企業としての利益を考えれば浮き沈みを続けながらもこの二項対立を続けなければならない。
これは、本来報道とバラエティという異なったジャンルにより棲み分けすることで回避しようとしてきたものではあるが、近年の短期利益最大化戦略により独立性は相当なまでに崩され現状に至る。同じように金融業界の混乱も短期利益の最大化を皆が追い求める事を是とする風潮の中で生まれたとすれば、同じ穴の狢と言えなくもない。

さて、ここに来て一部マスコミの民意からは少々逸脱した民主党擁護の姿勢が見える事については以前よりも触れてきた。例えば毎日新聞のコラム(牧太郎の大きな声では言えないが…:「ささいなこと」で騒ぐな:http://mainichi.jp/opinion/news/20121106dde012070042000c.html)などはその典型ではないかと思う。そもそも政治の場に説明責任や任命責任という概念を持ち込み、権力を最も強く叩いてきたのはマスコミではないか。自らは事故の理念に従っているつもりかもしれないが、それを見るもの達からすれば一貫性を明らかに欠いている。
確かに、私自身も過度の潔癖さを政治家に求めることは政治力を弱める原因になると思っているので、不正蓄財は別にして交友関係程度で騒ぐなと個人的には言いたいのだが、それを最も否定してきたのが当のマスコミではなかったか。絆創膏や還元水だけでなく漢字の読み間違いで騒いでいたのは記憶に遠くない。
日本の官僚の能力が劣化したと言われるのも同様に、業界との不自然なつながりがマスコミに問題とされた事から始まる。ひどい問題は取り上げるに値すると思うが、それが行きすぎれば結果的に別のひずみを引き起こす。社会の先端は当然民間業界が受け持っていて、行政はその情報こそ集めているが全体を俯瞰する事は出来ても細部の状況などは当事者でないのだから知りうるはずがない。政治家の場合と同様に不正な蓄財をするものは断罪されて良いと思うが、交流そのものを抑制するような仕組みはおそらく日本の国力を大きく削いでいる。

それを報道するマスコミは、自らが考える常識に則り社会的なバランスを取っているつもりなのだろうが、結局のところ理念無き(あるいは偏った理念による)バランス論はその場を取り繕うには適していても(あるいは劇場型で悪を断ずるには適していても)、それが究極の目的たる日本の繁栄に結びつくわけではない。むしろ、下手な中道を探る道は日本の衰退を促進する。
バランサーという言葉で思い出されるのは、盧武鉉などの韓国の大統領がしばしば口にしてきた「アジアのバランサー」という言葉である。よく言えば中立を守ると言うことであり、悪く言えば強い方につくコウモリのような行動を取ると宣言しているものでもある。
朝令暮改は素早い判断と見なされる事もあるが、それと同時に一貫性のないその場しのぎの対応も意味する。バランスをとり続けるという事はそこに筋がなければその場しのぎを続けると宣言しているにも等しい。それも判断の一つであるが、おそらく世論は変わり身の早さについて行く事は出来なくなるだろう。逆に、必要なときに判断を変える事が出来なければ、これもまた世論の支持を得る事が出来ない。

今のマスコミの理念は、私が見る限り日本の戦後の反映を土台として構築されている。今やそれが脅かされるという状況に陥っているにも関わらず、過去に据えた立ち位置を変える事が出来ていない。その上で表面的には番組等で態度をふらふらとさせあやふやにしている。どちらも、本来望むものと逆の状況にある。それは、マスコミの望むバランスが現状維持と小手先の対応になっているからではないか。実のところそれこそがマスコミがあらゆる方面に追求してきたものではないか。
その姿は、盧武鉉により定義づけられた「バランサー」という言葉にふさわしいものではあるだろう。