Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

精神癒着

ジャーナリズムを標榜するマスコミは、その成立からして民主主義国家においては権力と対立する姿勢を有するのが普通である。もちろん対立するとは言っても平和な時代においては根本的なレジスタンスではなく、政治の腐敗や権力の乱用をチェックしたり、あるいは行政の狭間で光当てられない人や事にスポットを当てることがある。もちろん、それらは日々の報道の積み重ねとその根拠となる取材結果に基づく訳であるが、同時のその過程において権力構造との癒着が生じることも少なくはない。
その最もわかりやすいパターンは、金銭による情報操作である。問題行為を見逃す、あるいは敵対関係にある存在にデマなどによる情報戦を仕掛ける。歪曲した情報を流して世論を混乱させるなど、そのパターンはいくらでも考えられるが、基本的には金銭又はそれに準ずる何かの利得を得るという意味では非常にわかりやすい権力との癒着と言える。

私達は、こうしたジャーナリストなどのマスコミの権力との癒着についてはかなり敏感だ。例えば、マスコミの世論調査が自分たちの感覚と異なれば内閣機密費が用いられているのではないかと勘ぐってみたりする。ただ、考えてみれば年間10億ほどしかない機密費で全てのマスコミ情報を操作できるはずもない。
あるいは、政府からの締め出しによって実質的な村八分に追い出すこともできなくはないが、これもメディアがこれだけ発達している現代ではよほどの理由がなければ記者クラブのようにやり玉に挙げられるだけだし、そもそも政府発表資料に情報としては速報性以上の意味など無い。その資料には不味い情報を不味くないように見せるためのデコレーションがたっぷりと施されているのだから。

私が上記の金銭的な癒着以上に問題であると考えるのが、権力などとの精神的な癒着である。そこには2つのパターンが見られる。
一つ目は癒着という言葉を使用するのが正しいかどうかはわからないが、シンパシーを感じる間柄、あるいは思想的共同体とも言えるようなケースも見られる。それが、マスコミの偏った情報発信として国民には受け止められる。
もう一つは、これも金銭的な授受は存在しないが情報を通じての持ちつ持たれつの関係により、本来ジャーナリズムが有するべき独立性が軽んじられているケースもある。それは「情報カルテル」と呼んでも良いようなシステムだ。一次情報を発する側と受け取る側が結託すれば、情報の独占的な提供が実現できる。その問題点を指摘する声は出るかもしれないが、短期的には意図された情報がばらまかれる訳である。

どちらのケースにしても収賄などが絡む露骨な癒着ではないために、犯罪としての処分が難しい。ただ、権力とジャーナリズムの癒着という意味では実質的には何も変わらない。権力に都合の良いことを報道するのだから。
マスコミを含むジャーナリズムとは権力の監視者であるべきだが、それを為し得ない一番の理由は孤独を恐れているからではないかと感じる。孤独を恐れるようではそもそもジャーナリストを口にするのもおこがましいと思うのだが、残念ながらそれを体現できる人は少ないし、いてもTVなどに登場する機会が少ない。この場合の孤独とは自らが批判されることに耐えることである。単純に無視されることだけではない。
今のマスコミは孤独になることを恐れるからこそ徒党を組み、国民ではなく仲間を守る。その上で、権力に阿るのだ。そして、それが個性のない番組が垂れ流されることにつながっているように思う。
ただ、阿らないことは企業としてのマスコミの根本的な理念と対立する。建前上は対立しないはずではあるが、大きな敵を恐れるのだ。

この精神的な癒着の呪縛から解き放たれない限り、日本の報道は信じるに値するレベルに達することなど無いであろう。

「マスコミの左翼(民主党)シンパシーは団塊の世代のノスタルジーでできているのかもしれない。」