Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

機会と結果の平等

 今では話題にも上らなくなったが、永らく続いた自民党中心の政権が覆された理由は様々あるものの、大きな一つには固定化された富の独占が意識されていたのではないかと思っている。マスコミの反対キャンペーンが未だに続く公共事業など、特定の業種にお金が流されているのが許せない。公務員が天下りにより不当に大きなお金を得ているのが許せない。有力な政治家が政策に介入して不当に地元に利益を誘導するのが許せない。
 だから脱官僚政治=政治主導や天下り防止により公務員の持つ権力を弱め、国民がなるべく平等に利益を得るような形に変えたいというのがあっただろう。同じ文脈により、公共工事ネガティブキャンペーンも行われている。確かに施策によりどの業界にお金が多く流されるかが決まる訳であるから、平等なお金の分配を考えたならば突出した場所を出したくないというのはわかる。
 もっとも民主党政権になってそれが改善されたのかと言えば全く改善されることなく、むしろこれまでスムーズに回っていた部分まで壊しかけたので国民はNOを突きつけることとなった。国民が望む方向に行かなかった最も大きな理由は、国民のための最善を追い求めるのではなく、自らのルサンチマンhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3)を解消しようと行動したことになるのではないかと思う。この傾向は、結果として経済的な勝ち組にも関わらずマスコミが権力に対して抱いている心理と近いところがあり、それ故に民主党とマスコミの親和性が高かったのだろう。

 では、単純な平等が社会にとっての理想かと言えばこれが違うのは、共産主義国家が崩壊していったことからもわかる。結果の平等は人々のモチベーションを下げてしまい、帰結として国家全体の活力を奪ってしまう。では、同じ平等でも機会の平等を追い求めればそれでよいかと言われれば、これも必ずしもそういえないところが歯がゆい。機会の均等とはチャレンジする機会を国民に平等に与える事であるが、完全な機会均等を為すことは既存の社会環境により確実に履行するのは不可能である。だから、どうしても現状存在する小さな(大きな?)差を埋める方法が議論の俎上に登る。
 埋める方法は、補助であり金銭的な貸し付けであり、あるいは控除などの金銭的な取り組みが主である。チャレンジの機会はスタートラインを完全に均等にするものではなく、あくまで望むものに機会を提供しているに過ぎない。機会の平等を突き詰めようとすれば、その分社会的コストが増大してしまうので、社会負荷とのバランスを見ながらそれを追いかけているのが現状ではあるが、取り組みを不十分だと思う人は不満を募らせる。
 加えて、仮に機会が平等だったとしても競争の結果として必ず勝ち負けが発生する。弱者保護の仕組みはこうした社会的な敗者を救済することではあるが、どちらかと言えばその理念は結果の平等に近い。

 このように、社会は機会、結果それぞれの平等の間に落としどころを見付けようとしている。様々な考え方により落としどころの有り様は揺れ動くものではあるが、ここに社会コストの概念を組み入れることでその妥当性はかなり絞り込まれるのだと思う。
 コストのみに終始してはならないが、私達が目指すべきバランスの取れた平等の概念をきちんと考えることは必要だろう。考えていないからこそ、強い主張をする人の平等の概念に押し流されてしまうところが少なくないのだから。