Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

談合は悪なのか

どんな問題でもそうではあるが、単純な二元論での善悪を問われれば悪に分類されるものではあっても、個別の状況を勘案すればその必要性が見出されるものは少なくない。例えば、未だに公共事業悪玉論を展開するマスコミなどはこうした二元論を狡猾かつ卑劣に用いていると私は思う。
談合についても、その是非を問われれば問題あるものではあるが、同じ様な仕組みが言葉を変えれば社会では良い方法論として通用していたりするものである。
ワークシェアリングhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0)」という言葉がある。主に欧州での実績をもとに日本でも導入すべしと声が上がったこともある。限られた仕事を分け合おうという精神であり、不況期には雇用維持や雇用創出のために検討される。マスコミもワークシェアリングに関しては好意的な報道に終始しているが、談合という悪の権化のように言われる存在も不景気時には実質的にワークシェアリングとは変わらない。更に言えば好景気の時であっても公共事業の受注に関しては、好景気により民間単価よりも安い公共工事を順番に引き受けると言った役割も果たしてきた。

そもそも談合とは、カルテルhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%AB)の一種として認識されている。そして、談合により落札者を決め受注金額をつり上げるということが問題だとされている。
特に談合で問題なのは次の2点であろう。
1)談合グループ以外の締め出し
2)受注価格のつり上げ

実際には、談合が大きな社会問題となり始めてから発注者側も様々な対応を行っている。一つは、自由競争入札の大幅な採用である。旧来は、かなり大規模な工事を除けば指名競争入札と呼ばれる、一定数の企業を発注者が選定してその中で最も安い入札を行った企業が受注するというのが普通であった。これは頻繁に営業に来て熱意を見せる業者を優先するとか、あるいは一定の品質を望める業者を発注者としてピックアップするといった、むしろ発注者側の論理により構築されたシステムであったと考えることもできる。そもそも公共事業の発注という行為は、それを行う機関が方法を含めて取り仕切っているのである。受注側にできることといえば、企業としての技術力を高めること以外には早く情報を手にすることで受注競争上有利な地位を占めることくらいしかない。
自由競争入札の広がりは、現実に談合という仕組みをかなりの割合で破壊した。特に大規模工事ではその効果が顕著である。逆に小さな工事になればなるほど、地元志向が高まったり参加する業者が限られてくることで、自由競争入札を採用することが難しかったりすることで談合の仕組みも残りやすい。
談合の中にも「官製談合」と言われるものがあるが、これは発注者たる公共機関が談合を希望するようなスタイルである。それは個人としてのキャッシュバック(賄賂)という例も無いことはないだろうが、どちらかと言えば公共事業の円滑な執行を目的としたものが多い。品質に信頼おける企業に受注して欲しいとか、発注の手続きを簡略化したいなどである。
参考:官製談合防止法http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%9C%AD%E8%AB%87%E5%90%88%E7%AD%89%E9%96%A2%E4%B8%8E%E8%A1%8C%E7%82%BA%E3%81%AE%E6%8E%92%E9%99%A4%E5%8F%8A%E3%81%B3%E9%98%B2%E6%AD%A2%E4%B8%A6%E3%81%B3%E3%81%AB%E8%81%B7%E5%93%A1%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%85%A5%E6%9C%AD%E7%AD%89%E3%81%AE%E5%85%AC%E6%AD%A3%E3%82%92%E5%AE%B3%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8D%E8%A1%8C%E7%82%BA%E3%81%AE%E5%87%A6%E7%BD%B0%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B

もう一つ談合が悪い意味を持つ理由は、発注者の想定する入札予定金額(積算価格)が実勢よりも高いと言うことが関係する。それが低ければ、業者としては談合したとしても不当な利益を上げることは叶わない。すなわち、談合は妥当な入札予定価格を決める能力が発注者に欠けているという問題点と切り離すことができない。仮に妥当な金額が想定されていたとすれば、その中で最も利益を最大化する行為は必ずしも非難されるべきものでは無いようにも思うのだ。
もちろん、国民からすれば公共事業であれば少しでも安い受注額の方が良いという考え方があるのは理解できるが、同時に受注者も国民であるからして適正範囲の価格の受注であれば文句を言われるのも困るであろう。受注金額が不当に高いと言うことは、すなわち予定されている入札金額が不当に高いと言うことである。だとすれば、その不当性は受注者よりもむしろ発注者に責任があると見えなくもない。普通に考えて、企業が適正な利益を得られる中で最小の金額が発注予定価格として設定してあるならば、倫理上の問題を除けば談合していようが無駄な支出とは言えないと思うのである。
近年では、デフレにより民間工事のみならず公共行為の発注予定価格も大きく下がってしまい、かえって何処の業者も落札を辞退する等というケースも多く見られるようになった。結局のところ妥当な発注金額が迷走しているとも見て取れる。

さて、談合というものが単純な受注調整に限られていたとすれば、それは最初に上げたワークシェアリングとそれほど違うものではない。少ない仕事を皆で分け合おうというものだ。仮に問題があるとすれば、仕事が少ないが故に新規参入者を阻害する方向に機能することが最も大きいだろうと思う。私は別に談合を推進するつもりはないが、ワークシェアリングの手法として上手く用いることができるのであれば、それが必要な時期には効果がある方法だと思う。談合に限らないが、社会悪ではあってもそれに一定の根拠は存在する。最近は、闇雲に悪と決めつけて糾弾することが、かえって社会的にはマイナスになる部分があるのではないかと感じる部分が少なくない。
談合も、ワークシェアリングの一環として一部業者を不当に儲けさせないと言う見地で上手くシステムを組み上げられれば、効率的に物かつ公平に事進めることに役立つかも知れない。