Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

健康と寿命

不健康が人生を素晴らしくするとは普通考えにくい。健康であるに越したことはないし、健康である方が人生を楽しむための可能性を広げるだろう。ただ健康はそれそのものが価値ではなく、あくまでよりよき人生を歩む上での舞台を整えるための装置である。世の中を見渡せば、一部に健康そのものを目的として捉える風潮やそれを実践している人を見かけるが、私はそうした状況の広がりにちょっと疑問と不安を感じずにはいられない。
私達の人生は、健康のみならず恋愛や名誉、財産、それ以外にも様々な生き甲斐などにより構成される。もちろんそれぞれが独立したものでは無くお互いに複雑に絡み合いながら成り立っており、それぞれの一つずつを論じても人生全体を言い表せるわけではない。
それ故に、あたかも健康がよりよき人生を送る上での最も重要な要因と考えることが当たり前という風潮に疑問を感じているわけだ。

健康と言うよりは寿命に関するものではあるが、例えばいくつかの研究によれば人の寿命は癌などの手術によっても延びるわけではないという報告がある。その信憑性について論じられるほどの知識を持ち合わせているわけではないものの、考えてみれば合点のいくことでもある。癌の全てがそうと言うつもりはないが、こうした病気は人間の生物として生きる力の衰えにより引き起こされると私は思う。その衰えに関しては、遺伝子などにより引き継がれる部分と生活環境により生み出される部分はあるだろうが、長生きすればするほどそれは生命活動の低下によるものだと思えてくる。問題は、その肉体的な低下が精神的なものとリンクしていないこととしてあることではないか。
残念ながら意思の力では病気は克服できない。もちろん、「病は気から」と言うように意識レベルの低下はカラダの機能不全に何らかの影響を与えると思うのだが、それでは逆に病気が本当に気持ちの持ちようで治るかと言えばこちら側は難しいと思う。機械で言えば、病は機械を構成する部品の劣化や異常であり、気持ちはそれを監視・コントロールするシステムの問題なのだ。精神的なものがおざなりになれば日々のメンテナンスも適当になるし、自己修復可能な軽微な異常にも気づきにくくなる。ただ、逆に気持ちのみでは機械の劣化そのものをどうにかすることはできない。
また、個別の部品の局部的な劣化はその部品の修理により改善できるが、全体的な劣化は人の体の場合には取り戻す事はおそらくできない。

さて、いろいろな電化製品や住宅などでもメンテナンスをする事で快適かつ長い間の使用に耐えられるようになる。問題はそのメンテナンスの程度が重要である。メンテナンスはあくまでかけた手間とその見返り(パフォーマンス)により評価される。わずかの利益を得るために莫大な時間とコストと心労を必要とするのであれば、本末転倒となってしまう。
健康に関しても、結果的には同じような事が言える。必要か不必要かの二択となれば答えは自ずから決まるものであるが、それが効率性まで含めてくれば大きく評価に差が出てしまうのだ。人に依れば、多少の不健康さを甘受しても好きな事に興じたいと思うケースも少なくないだろう。むしろ生き甲斐のためなら無理をする人などどこにでもいる。
機械部品の喩えに戻るが、機会全体にわたる部品の劣化はどちらかといえば個別のトラブル発生によりもたらされると言うよりは、むしろ最初から決まっているような気がする。運命論のようになってしまうのは少々しゃくではあるが、人の寿命とは体という品質により一定のレベルで決まっており、今の高度な医療を用いれば多少は寿命を延ばす事も出来るかもしれないが、それは多くの場合非常に低いベネフィットしかも当たらさない。人の命を効用により評価するのははばかられるのではあるが、与えられた寿命を操作するような医療やあたかも寿命が延びるような健康論を考えるよりは、部分的なトラブルを治す医療と、部分的な異常を発生させない健康論を考える方が理にかなう。もちろん、様々な意見があるだろうから別に延命行為が全て意味がないと言うつもりはない。

ただ絶対的な白黒ではなく質に言及するならば、、部分的な異常を治す事は質の高い人生を手に入れるために効果があるが、全体的な劣化を無理矢理治す事にはそれが見えにくい。