Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

どうすればできるか

「お客様は神様」と言ったのは三波春雄だが、実際に仕事をしている身からすれば客の要望には応えたいという気持ちはありつつも、自分自身や自分を取り巻く環境との葛藤の中でなかなか応えきれないことが多い。結局のところ応えられるかどうかは別にしても、成果を目指して努力を続ける部分が重要となる。そして、その努力の多くは知らないものからすれば無駄と言われてもおかしくないような行動の積み重ねである。試行錯誤と言っても良いが、こうした努力は基本的に多大な無駄と共に価値を増していき、結果的に目的に到達することもある。
一方で企業としては同時に利益追求も重要であり、コストカットは今のようなデフレ不況の時代には何より重要視される。

最近話題の「無駄を省く」というのは基本的に良いこととされる。例えば民主党事業仕分けという政府支出の無駄を省くことで人気を得ようとしたし、公共事業削減論なども基本的には無駄を省くというポリシーに基づく。家では母親が節約に勤しみ「無駄な電気は消しなさい」と毎日のように小言を言われ、会社では無駄なコピーはしないと業務の電子化が進む。無駄を省くというのは基本的には合理化の一環だ。最初から無駄だと判っているものを削減することは理に叶うし、それに取り組む意味は決して小さくない。ただ、かつてのエントリでも触れたが(無駄で悪いか!?:http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20111216/1323962525)無駄そのものが一概に悪いという十把一絡げの議論もどうかと思う。

例えば、行動や消費においては無駄を省くべきと言うのは確かに合点がいきやすい。しかし、考えてみれば人間の行動などそもそも無駄の集積のようなものであるのだから、極論はあまり言いたくはないが無駄を省くことを突き詰めれば人間の存在そのものが否定されてしまうだろう。また、社会や経済というものも本来は無駄があることにより上手く流れるものである。
加えて、無駄かどうかを決めるのは実のところこれまた非常に難しい。例えば、東日本大震災で一躍有名になった岩手県北部の普代村に高さ15mの防波堤がある(http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm)が、おそらくそれが作られた時にはお金の無駄だという意見が山ほど合ったであろう。それが震災に伴う津波があって非常に重要だと再認識されたが、津波がたかだか5m程度でしかなかったならば別の評価がされていたのではないだろうか。
別の例を示そう。大阪の目抜き通りに御堂筋(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%A0%82%E7%AD%8B)という広い通りがある。パレードや銀杏並木に加えて目する建物の高さ制限があることでも有名な通りであるが、現在の広さが確保されたのは大正時代の計画である。全幅員が43.6m、全長4kmにも及ぶ広い道路がその時代に必要であったかと言えば、おそらくそんなことはあるまい。広すぎる道路が都市を寸断してしまい交流を妨げることも考えられるし、大都市のど真ん中にこれだけの土地を確保すると言うことも行政支出を考えれば大英断であった。いや、むしろその当時は無駄な支出だという意見が少なくなかったのではないだろうか。ところが、御堂筋は現在では欠くことができない重要な幹線道路となっており、その幅員が広すぎるなどと言う文句を言う人はほとんどいない。
すなわち、無駄というのは特定の見地から言えることではあるが、時間やものを見る角度を変えてみれば全く違った結果になる。とは言え、生活における無駄を無くすことに不満はないし、行政の無駄も省いて欲しい。ただ、それは合理化が目的であって前提が変わらない限りは現在認識されている無駄は無駄のままだが、社会の変化等により前提条件が変われば無駄が有益に変わる事もある。

そして最も重要なことが一つある。人は、他人がする無駄は許せないが自分がする無駄は許せるのだ。


さて、無駄を省くということは合理化の一手法だが、それはすなわち触手(世の中へのアンテナ)を広げるて新たな情報を取り込むのは敬遠されがちになる。無駄を省けるというのは、その事象がこれ以上変わり得ないと思うからこそ言えるのだ。しかし社会は変動し人の心も移ろい行く。様々な事象が変化しない事などありようもなく、私にとっては無駄を無駄と言いきれる自信はない。むしろ多くの場所でも言われるではないか。「経験に無駄な事など一つもない」のだと。
要するに、自分に悪い影響を与えない他人の無駄も実のところ許容されている。無駄を無駄と断じるのは、自分に悪い影響が及びかねない他人の無駄なのだ。だとすれば、無駄を省くだの合理化するのだと言うのは、基本的に自分に被害が及ぶ事がないように他人を制御するための方便なのである。
もちろん、自ら節制する事で無駄を省いた生活を送る人も少なくない。ただ、それは合理化そのものが生きるための目的となっているようなケースも少なくないように思うがどうだろう。

自分の無駄は許容できる故に、自分の行う努力は本来無駄に思えることであっても許容できるはずである。そして、多くの場合一見無駄に見えることの中から何かを掴み取り、新たなものを生み出すきっかけとなるのだ。もちろん試行錯誤は遮二無二行えばよいわけではなく、目的に至る方法論にはそれなりの理屈が必要である。ただ、その理屈が他人に理解される必要はない。
一部の天才を除けば、努力を無駄だと早計しないことがチャレンジの結果を掴み取ることに繋がる。既にルーチンワーク化されたことについては無駄を省くことができるし、それは非常に重要なことでもある。ただ、何かを成し遂げるという未知の境地に踏み込む時には、無駄にすら見える試行錯誤を許容する必要があるだろう。それは合理化を目指したチャレンジではないのだから。