Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

見たいものを見る、見たいものしか見ない

 私たちは、基本的に嫌な出来事や嫌いな人を回避しようとする。不快であれば、心理的ストレスが高まるのであるから、至極当然の行動であることは言うまでもない。だが、現実には不快なものを全て回避して生活を全うすることは叶わない。これは、多かれ少なかれ大部分の人に当てはまることであると考えている。元気で気力に満ち溢れている時には対応できても、体調が悪く気力が減退している時には煩わしくなるのは誰もが感じることだろう。

 

 「好き」の反対は「興味がない」というのは、まさにそれを表している。関心があるのかないのか。私たちは関心があるものには目を向けるが、関心がないものには拒絶感(あるいは忌避感)を示す。学校の勉強などは特にそうであろう。そのため、教育者たちは学生たちに如何に関心を持たせるかに粉骨砕身する。他方、学生たちは内容ではなく教師への興味でまじめに勉強するものだ。

 

 私が仕事を始めた当初に先輩から教わった言葉として、「最悪を想定して準備し、最適をイメージして行動する」というものがある。突っ走り過ぎず、臆病になり過ぎもしないという意味だが、このバランス感覚はなかなかに難しい。最悪はほとんどの場合、自ら想定できないところから生まれてくる。「まさか」、「そんなバカな」、なんて言葉は何度も使ってきたし、容易に意思がむかないことを想定できるようになるためには長い経験と多くの失敗が必要であった。

 

 さて、見たいものだけを見ようとする人は世の中には溢れている。そんな、何となく不誠実に感じるようななタイプの人は少なからず自分の身の回りにいないだろうか。自信過剰の人であったり、人の意見を聞かない人だったり、あるいは過剰に調子のいい人だったり。一方で、見たくないものを忌避し続ける人も少なくない。引き籠りというものは、ある意味それではないかと思っている。トラウマを避けるためには、全てを切り離すしかないと思い込んだ状態である。

 

 私は以前より中庸の重要さを何度も書いてきた。だが、この中庸は二つの意見のバランスを取るだけのものではないと考えている。最適と最悪の間で思考を巡らせられること、これも重要な中庸のあり方なのだと考える。正解ではないがベストに近い選択肢はどこかに存在する(正解などそもそも存在しない)。こうした状況は多くの若者が一度は経験する通過儀礼である葛藤、あるいはそれに近い容易に答えの出ない中途半端な状態を維持することに近い。通常、人はそれから逃れるためにレッテルを貼り、価値観を築き、自分なりのスタイルを主張しようとする。不安定さというものは、本当に耐えがたいものなのだ。

 権利意識が高まった現代では、不合理さに抵抗する意志の強さや精神耐力が低下していることが何より問題なのではないかと思う。傲慢にはならず、その上で曖昧さを許容できる精神的な寛容さ。私たちはそれをかなり失ってしまっている。かつて自然が驚異だった時代、あるいは戦乱など社会時代が理不尽な時代、私たちは自分では如何ともしがたい状況を受け入れるために、様々な心理的な方法論を生み出してきた。宗教もその一つであるが、個人の精神的な強さは昔の方が強い。

 

 科学の進歩は、人々を不合理な思考から大きく解き放った。迷信、超自然的な存在、意味のない慣習、その他様々な不合理性がかつて存在し、私たちの生活を縛り付けていた。おそらくそっらは不当なものと言えるだろう。これら状況も、ある意味では見たいものを見る(感じる)行動であったと言えなくもない。ただ、見たくないものから逃げることからは許されなかった。

 私たちが獲得した合理性は、本来見たいものも見たくないものも等しく取り上げ、判断するための能力であると私は思う。だが、現実にはそれはバランスよく機能していない。そのための学習機会が不足しているためではないかと考えている。見たくないものを避けることが容易にできてしまう、社会的に許容されている状態。

 

 毎度毎度例に引き出して恐縮だが、日本に難癖をつけ続ける韓国は、まさにその状況の典型ではないかと感じている。少なくとも、現時点では日本(政府関係)の方が見たくないものまで想定して、対応していると言えよう。一部、日本メディアはまた別だが。