Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

テレビのふりがな

テレビのバラエティー番組などの過剰なフリップはすでに多くの場所で問題とされている。くどいほどに画面に提示される表示は、一部で「笑いを強要している」などという意見があるものの収まる気配は見えない。同じようなものとしては不自然に挿入する笑い声もそれに当たるが、まだ笑い声の方が嫌みが少なく感じている。
テレビを製作している側からすれば、バラエティーのおもしろさをなるべく多くの人に理解してもらおうとしているわけであろうが、同時にその番組の持つ内容を余すところ無く利用したいということでもある。本来バラエティーは、それを面白いと思うかどうかは視聴者側の感性による。もっとも、現実には面白い、面白くないという明確な判断を下す人はそれほど多くなく、特段の感想を持たずに漫然と眺めている人が多い。
笑いのポイントを画面上に表示するのは、そうした漫然と見ている人を少しでも取り込もうという手段でもあるのだと思う。方法論としては確かにそのような手法もあるだろうし、一定の効果が見込めるであろう事は否定しない。
ただ、笑い方まで型に嵌めようとするその手法は、むしろ視聴者の質を現在以上に下げようとしているようにも見える。笑いとはそもそも文化であってシステムや方法論ではない。すなわち、バラエティー番組の出演者は視聴者を笑わせるための努力が常に必要であり、それを努力することで出演者も視聴者も各々質が向上していく。もちろん視聴者側は努力をするわけではないが、質の高い芸を見ることで見る側の質も向上するのである。

すなわち、テレビ局の余分な介入は笑いという文化の質を引き下げていると私は思う。それは、芸人の芸を向上しないものとしてそこに過剰な解説を行う、、要するに難しい漢字にふりがなが振られるように見る側の質を低くて向上しないものと決めてかかっているのだと思うのだ。
ふりがなの多く振られている本を読んでどう思うか。もちろん読みやすいと思う人もいるだろうが、多くの人は鬱陶しいとか、読みにくいと思うのではないか。まるで子供に教えるようなそれは、最初は良いかもしれないが繰り返されれば却って興を削ぐ。そして笑いという文化を認識する能力はいつまでたっても向上しない。
テレビ局側がそこまで考えて行っていることではないと思う。単純に、笑いを少しでも取ろうと必死になって行っているのが画面上に文字を表示して笑いの強要なのだが、結果的には芸人側にもそれを見る側にもより高いレベルの笑いへの昇華の機会を与えず、低レベルのその場に踏みとどまることを強いてるのである。もっとも、テレビというメディアは元々そんなものだと言われれば、確かにそのとおりかもしれない。画面という大きなフィルターを通してしか通じ合えないのだから、芸人側は視聴者の反応をリアルに知ることができない。すなわち、その場でのフィードバックは見る側のそれではなく芸人同士の間の受けの認識により為されるわけだ。少しの見学者はあるかも知れないが、それすらも最近は笑いのタイミングや方法まで強要されているような例も少なくない。

ドラマの質の低下や報道番組の内容不足など、テレビを巡る劣化の話には枚挙にいとまがないが、それは視聴率という制度に過剰に依存することで質の向上により視聴者を惹き付けることよりも、過剰なサービスにより惹き付けようとしている姿勢が透けて見える。
問題はそのサービスが結果として番組や見る側の姿勢を高めるものとなるならばよいのだが、全く反対の方向に動いていることが問題なのだろう。