Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

消費の愉悦

あくまで一般論となるのだが、消費の愉悦はその人が選択の数をどれだけ保有しているかに関係するのではないかと思う。それ故に、人は選択の余地が少ないことを貧しい人生と理解しやすい。
本当にそうであるかどうかには若干の疑問も残るが、貧乏人よりも金持ちはそれだけ選択を多く保有しているのは間違いない。ただ、人が一度に検討できる選択肢はそれほど多くない。通常は2〜3の選択肢までは本格的に悩むことなく簡単に絞り込むことが多い。この場合は、手間をかけないために実質的な中身より社会的な立場や権威を理由に使うが、コストによるフィルターが最初にかけられることも多いであろう。もちろん、金があればそれだけハイグレードなものを選択できるという力があり、その結果安いものは最初から選ばれないということにもなるだろう。
消費の楽しみは、この選択をすることで自らに与えられるメリットを最大にすると言う知的ゲームでもある。感じるメリットは感情論であって、それを論理的な選択によって最大化する。そこにこそ愉悦があるのではないだろうか。

一方で超の付くような大金持ちのことを考えたなら、そこにはまるで無限の選択肢を得るのだろうと想像できなくはないが、逆に何でも買うことができることで選択の楽しみが薄くなってしまうようにも思える。どれを選んでも差が無くなってしまうと、感情と知性を駆使した遊びの意味が小さくなってしまう。選択の可能性は山ほど増えても、選択する意味そのものが薄くなってしまえば愉悦とは言い難い。そのため、金持ちになれば選択肢を広げることよりも選択する理由を探すようになるのだろう。なぜそれを選択するのかという意味こそが絶対的な価値を持つ。情動があって理由を付けるのではなく、理由を考えてそこに情動を追随させるのだ。よって、感情よりも理性が先行するが故に勢いが弱くなってしまう。

さて、日本国内の消費が低迷しているのは買いたいものがないという意見も良く耳にするが、本当にそうなのだろうか。逆にお金がないから選択肢を選べないと言うことで、消費の楽しみを知らない(あるいはわざと抑圧して)日々を過ごしているケースも少なからずあるように思う。
実際、消費中毒によるカードローンなどの問題や、コンプガチャなどの射幸心を煽るゲームの問題だけでなく、AKB商法のようなものも世の中では山ほど見られる。彼らは、ものを消費するという選択肢よりは、心理的な快適さを求めるが故にギリギリまでの消費を行っているではないか。すなわち、多くの国民は買いたいものがないのではなく選択して購入するだけの差異やそこから生まれる楽しみが見いだせなくなっているのではないだろうか。
確かに、無駄な消費は個人的な範囲を考えれば必ずしもメリットが十分あるとは言い切れない。むしろ倫理的には咎められる方が多いかも知れないだろう。あるいは世代ごとに影響が異なるかも知れない。十分老いればそもそも執着心が減退するし、子供の頃には教育的配慮から無駄遣いは戒められるべき等と。

しかし、消費は現代社会成長の礎でもある。海外への一方的な輸出が続けられない(すなわちそれは海外からの富の簒奪ができないと同義)という前提を置いたならば、国内での富の移動を一定以上確保することが必須である。
加えて、消費は本来的に愉悦なのである。それを戒める過ぎることは、社会の正常なる発達までも萎縮させる。もちろんバブルのような狂騒は困るだろうが、過度の萎縮も問題なのだ。
人によれば将来への不安が消費を抑制する主因だという人もいる。あるいは、人口減少がその主な引き金だという人もいる。それらの考えが全くナンセンスだと言うつもりもないのだが、それが主因だとすれば日本は衰退するしかない事になりかねない。

私は適度な消費が続く事は、社会的な意味だけでなく日本人の心理面でも大きな意味を持つと思う。消費に溺れてはいけないが、それを過度に抑制する事も同時にいけない。物事は全てバランスの上に成り立っており、適度な量があってこそちょうど良い平衡を保ちうるのであろう。
私達は消費できないのではなく、消費する意欲を失ったわけでもない。おそらく感性が一時的に社会の進歩を追い抜いてしまった、あるいは社会の停滞が感性の突出を招いてしまったことによりる混乱なのではないかと感じている。今は、それを通常の状態に戻すのが必要なのではないか。

「消費には愉悦がある。その愉悦は、過度になれば悪いかもしれないが適度なそれは私達に夢と希望を与え、心理的なバランスを量る事が出来る。それを節制しすぎる事が必ずしも理想の未来を生み出すわけではない。」