Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

期待

周囲からの期待は重荷にもなるが、パワーの源にもなる。まず最初に思い当たるのはこのあたりであろうか。周囲の期待が自分の想定よりも高すぎればそのギャップは重荷になるだろうし、低すぎればモチベーションは上がらない。結局、自分の能力に見合った期待をかけてくれることで、それ以上の何かに挑戦する元気が湧いてくる。もちろん、最初から期待になど応えたくないと思っていれば議論にもならないが、少なくとも周囲の期待に応えたいという意識があるならば、それは本来糧となるべきものである。

適度な期待をかけられると言うことは、それだけ自分のことをよく見ているのだという安心感でもある。偶像や夢を追いかけての期待は実体を伴わない。現実感のない期待には応えたくとも容易にそれはできないし、夢は近づけば近づくほどに逃げていく。夢に近づく行為は素晴らしいが、期待が現実を超えるスピードで逃げていくとすれば、そこに残るのは徒労のみ。
追いつける限界ギリギリの期待というのをアレンジできるのなら良いが、現実にはなかなか難しい。それは、周囲で見ている者たちだけでなく本人自体が自分の能力を適切に見極められないからでもあろう。自分のことは自分が最も知っているとは言えど、それは自分のイメージの中にある自分であって現実の自分ではない。だからこそ、大きく見積もりすぎたり卑下してしまったりするのだ。
冷静に自分を見つめることができれば、それは等身大の自分をどうすればよい方向に向かえるのかを見極めることができようが、それができるには相当の経験や能力が必要となろう。ほとんどの場合には、それは成し得ずに誰かの判断を頼る。

なぜこんなことを書いているかと言えば、周囲からの期待を受けたいという自分の素直な願望にふと気づいたことにある。かつて幼かった頃、周囲の期待は面倒で鬱陶しいものであった。それ故期待に反発してしまったり、わざと期待に背くことをしたりとささやかな抵抗を試みたりもしたのだが、今となっては期待を受けることがどれだけありがたいのかと考えたのである。
最初にも触れたが、過度の期待は重しになってしまう。そして、年齢を重ねるほどに社会的なしがらみが増えたり、あるいは残りの人生の時間が短くなることであまり強い期待を抱かれなくなったりする。それは常識的に考えればその通りなのだろうが、実はそれこそが人生のモチベーションを下げる一つの要因ではないかと思う。皆がそうというわけではない。人によっては期待などをかけられるのは御免蒙るという人もいるだろう。ただ、年を経てなお期待をかけられる人は輝いているのではないかと感じるのだ。それは、輝いているからこそ期待をかけられるという面もあるだろうが、両者は相互補完的である。その正のスパイラルが上手く機能すれば人生を謳歌できるかも知れない。

周囲からの期待は、モチベーションの源泉となる。繰り返しになるが、あくまで良質の期待の場合であって歪んだ期待はむしろ障害となる。良質の期待は、自分のことをよく見ている人が多いほどに与えられやすい。そして、大した期待をかけられなくなると人生に立ち向かうモチベーションが急速に萎えてしまう。「何のために生きている」との自問は、すなわち期待を抱かれないという不満を表しているのではないか。
ただ、ここまで触れていなかった一つがある。それは自分が自分自身にかける期待だ。周囲の期待と自分が抱く期待にギャップが大きければ、これも葛藤の原因となる。いや、むしろ自分の実像よりも自分が抱いている期待との周囲の期待のギャップの方が多くの人にとっては重要なのかも知れない。

私達は、適度な期待を抱き抱かれすることで生きていく充実感を味わうことができる。だとすれば、他者に対する適度な期待をかけることをもう少し考えてみたい方が社会は面白くなるかもしれない。