Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

情報のコモディティ化

手軽さ、コンビニエンスさはネットを用いる一番重要なメリットであるが、それが進めば進むほどものの価値が低下していく。正確に言えばものの価値そのものは変わらないのだが、ものを評価する私達自身の感覚が摩耗し、価値を容易に見出しにくくなる。

商品には二つのジャンルがある。一つは普段の生活に必要不可欠な商品。そしてもう一つは生活必需品ではないものの、日々を豊かにするために用いられるもの。前者はコモディティ(汎用品:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3%E5%8C%96)と呼ばれ、多くの生産者が存在するために商品の差別化が容易ではなくなったもの、後者はそこに明確な差別が存在するものである。
これは、商品ジャンルごとに存在する訳ではない。例えば鞄であっても汎用品のものもあればブランド品のものも存在する。鞄というジャンル自体は汎用品が溢れる世界であるが、単純な価格競争に陥らないように企業は知恵を絞る。もっとも、一部のブランド化に成功したところ以外は努力の割に成果を得にくいのも事実であろう。

近年では、かつて高級品だった家電製品やIT機器についてもコモディティー化が促進している。これら商品は生活必需品とは言えないと考える人もいるだろうが、商品がコモディティ化すると言うことはそれを買う人が多いために多くの企業が参入していると言うことでもある。
それは生活必需品と言うよりは生活における陳腐化した商品だと言い換えても良い。明確な差異を見いだし難い存在だと言うことだ。
一般的にどんな商品でも、時間が経過すればコモディティー化していく。それは、普及すればするほど人々がそれに慣れていくからである。それ故に、企業は新製品を次々と投入することで目新しさにより慣れ、陳腐化を防ぐことに必死になる。コマーシャルにおける大仰さは陳腐化を防ぐ必死の努力でもある訳だ。

さて、この問題は主に情報の流通が図られるネットにおいても同じことが生じている。それは、情報の陳腐化と言っても良いかも知れない。商品の陳腐化は何となく理解できるが、刻一刻と変わる新たな情報において陳腐化とは一体何を示しているのであろうか。
それは、最初に書いたように慣れによる感覚の摩耗だと思う。人間は、精神のバランスを保つために素晴らしい能力を保有している。それが、慣れるという能力である。騒音響く場所で生活していても、人によっては慣れられない人もいるだろうが多くの場合は比較的容易に慣れてしまうことができる。都会の喧噪で育った人などは、却って田舎の静けさの方が耐えられない場合もあるのだから。

この慣れは、衝撃に対する心理的抵抗力の増加である。感覚や感性を鈍感化させることができるわけだ。ところが、これらは衝撃的な情報だけではなく一般的な情報も慣れにより感度を麻痺させてしまう危険性がある。簡単に言えば「飽きてしまう」のでだ。
商品の場合はそれ自体を手にとって使っての飽きだから、身体的にもリアリティを持って慣れが進行する。ところが、情報の慣れは情報の向こう側にある現実も合わせて慣れさせてしまうという面が少々怖い。私達は、情報というある種バーチャルな存在を通じて社会のリアルを把握する。その現実に直面すること無しに情報という間接的なものを介して現実に慣れてしまうとすれば、それは食わず嫌いと比べるのが適当かわからないが、想像の中で慣れた否定を招いてしまうのだ。

現代社会が情報の氾濫の中にあることは既に多くの人が言及している。そして、個人はこの情報の激流に翻弄されているように表現される。確かに情報の取捨選択が難しくなっているのは大きな問題であろう。だが同時にあまりの激流に晒される故か、情報に対する感受性を失いつつあるのではないかという別の懸念も大きくクローズアップされてくる。
私達は、ネット情報に対するリテラシーを高めるだけではなく、情報量に惑わされて情報の鮮度を見極める能力も同時に失わないようにしなければならない。

「慣れは重要だが怖い。肝心な問題を軽んじてしまう危険性を秘めているから。」