Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

神の定理

 これからの激動の社会を生き延びていくために最も重要なことは、「知的柔軟性」を身につけることだと私は思う。勉強でも研究でもこれまでの流れとしては、基礎においては多くの知識を覚え応用に至れば一つの真理を追究することが大きな意味での傾向であろう(もちろん分野によってかなり違うだろうが)。しかしながら、一つのことを探究するとはしてもあるいはだからこそ、幅広く柔軟な思考が重要となる。
 例えば、これを例示に用いるのが妥当かは悩ましいところではあるが、「神の定理」とも言える統一場理論(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E4%B8%80%E5%A0%B4%E7%90%86%E8%AB%96)を追いかけることも若干似たようなイメージを感じとれる。大統一理論(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E4%B8%80%E7%90%86%E8%AB%96)は未だ答えを得られぬ夢であるが、物理学に関わる研究者たちを夢中にさせるだけの大いなる魅力を有する存在である。

 その探索のために、あらゆる方法論を探し求めることは決して悪いことではないし、知的な柔軟性も担保されていると言えなくはない。結論が見つかることは素晴らしいことだと私も期待する者の一人ではあるが、本音で言えば完全なる統一は永遠に果たせないのではないか(あるいは新たな矛盾が引き起こされ続ける)とも考えている。決して捉えることができないからこそ、妖精や天女のように誰もがそれに惹き付けられるのではないか。甘い蜜に魅入られてしまう羽虫のように。
 ただ、ここで問題としたいのはあくまで思考の柔軟性についてであって目的のそれではない。チャレンジではなく、行動や思考の硬直性を題材としたい。

 さて、知的柔軟性は思い込み(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%9D%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%81%BF)を排除することから始まると言っても良い。思い込みとは、型にはまったパターンをその根拠を問うこと無しに適用しようとすることであったり、あるいは完全な誤解をそのまま信じ込んでいる様なケースもそれに当たるだろう。どちらかと言えば世間的には後者の方がよく用いられるようにも感じるが、不適切な適用を行うと言う意味では変わらない。
 人生も社会生活も、現実にはトライアンドエラーの繰り返しであって私達は暗中模索の状況で日々を生きている。神の定理を求めようという心理は、繰り返しを倦む心理が生み出す救済への渇望ではないかと思う。逃避と言うほどに楽を求めることではない。ただ、肉体的苦痛よりも精神的苦痛を回避しようとするスタイルは、時としてより困難な道を選択するしたかのように私達自身に錯覚を与えてしまう。

 試行錯誤は肉体よりも精神に負担が大きい。そして、多くの場合に私達は精神的な負荷により被るダメージの方が大きい事を無意識のうちに知っているからこそ、心理的負荷を肉体的な負荷により代替しようとしてしまう。状況は異なるが、より高い負荷を受けることで安心してしまうと言う状況が存在し、肉体的な負荷の高さが思考の柔軟性を失わせがちになる。
 確かに、スポーツや技術などでは肉体が無意識のうちに反応するほどにまで脳をカスタマイズすることは非常に効率的でかつ高いスキルにも結びつくが、それはルーチンワーク化された行為の効率性を最大限効率化させる技術でもある。それはそれで重要な要素だと思うが、ここで問いたいのは変化の激しいこの社会においてそれのみを向上させることでは不十分ではないだろうかということである。考えてみると、こうした技術向上の道筋は神の定理を求める姿とどこか似ていないだろうか。

 それ自体は無駄ではなく崇高のことだと思う。そのレベルにすら達しない人は山ほど存在し、成果は社会の賞賛を受けるであろう。ただおそらくまだその先は存在し、得たスキルを生かして生み出した時間を新たな柔軟な思考に生かすことが求められるのだと私は思う。
 技術の中に神は宿るが、それは終わりではなく始まりだと考えるのが重要なのだろう。