Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

なぜか無視できない症候群

鳩山、野田、菅、小泉… 安倍政権に歴代首相の注文・横やり相次ぐ(http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131003/plc13100308160002-n1.htm

 政権が無視するという話ではなく、ルーピー氏の話などは日本のマスコミそのものが単純に黙殺し、中韓のメディアが取り上げればそれを馬鹿にして揶揄すればなんてことない話なのだが、それができないのが人の業と言うものかもしれない。
 はっきり言って、彼らの発言が政権を動かすことはもはやありえない。ただ、メディアがそれを取り上げて報じることでこうした発言にそれなりの価値を与え、そしてその価値を利用されるという現状がある。正直言って、中国や韓国の主張で日本が襟を正さなければならない部分もない訳ではないが、大部分は言いがかりに過ぎないものである。こうした言いがかりを行うことも国際的なやり取りとして避けては通れない部分ではあるが、それを増長させる原因を作ることは国家としてはあまり得策ではない。

 もっとも、こうした発言を取り上げるメディアの大部分は国家(政府)を弱める方向の思想を持っているように見えることも多く、日本政府が困惑する方向に持って行くことは望むところでもあろう。そこに見て取れる心理は、国家を自らが作り運営しているという自覚のなさである。
 メディア(特に新聞)が社会の木鐸であるという原則論はわからなくもないが、そこには主体的に参加するからこそ鳴らすべき警鐘があるという原則がある。それはすなわち、責任を負うという自覚を主なっていなければならない。
 アメリカなどのパトリオティズム(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E5%BF%83)が最も素晴らしいとは言えないかもしれないが、それがないのは子供のような客のような立ち位置に自らを置いている事を意味する。親戚にいる皮肉屋(http://www.counselingservice.jp/lecture/lec420.html)と言っても良いかもしれない。

 皮肉屋は、自らの主張に一分の理があることは意識しており、その上で同時に自らが主体になり得ていないことも知っている。主体になり得ないのは、自らの意見が大勢を動かせない程度のものである故なのだが、だからと言って自らを変えようと積極的に動く訳でもない。
 要するに受動的で、その上で自らが愛されたい症候群にある。考えてみれば立ち位置的にはルーピー氏とかなり近い存在ではないか。だとすれば、それを取り上げてしまう心理は実のところ無意識のシンパシー(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F)なのかもしれない。
 加えて、マスコミとは自らの存在意義が騒乱の中にある。落ち着きと刺激を考えれば、刺激こそがマスコミの生きていく環境なのだ。だから、社会が安定すればするほどに問題を生み出していく(問題ではなかったものを問題としていく)ことが本能の中に組み込まれている。本来は、その抑制を理性により行うべきものではあるが、経済論理が理性の崩壊にも一役買う。

 国家的な損得を考えれば、無視するのが最も適していることは誰もが知っているが、全体の安定よりは自らの刺激を追い求めてしまうのは、メディアに関わらず人間の性なのだろう。
 ただ、そこで見られる人間性は理性ではなく本能に近いところにあり、大人ではなく子供に近い心理状態にある。そのことを旨とするかどうかは本人次第と言えよう。