Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

曖昧な善意が導く地獄

 「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉あるいは似た言い回しは、ネット上でも良く用いられる。その原典はカール・マルクスとされるが、知らばてみると必ずしも言い切れないようだ(http://www008.upp.so-net.ne.jp/takemoto/D7_72.htm)。あるいは、サミュエル・ジョンソンの言葉しているケースもある。
 誰の言葉であるのかを追求したい訳ではないので、ここでは言葉そのものに着目しよう。様々なニュースなどに触れていると、この言葉がストンと腑に落ちるようなケースを幾度か経験している。良かれと思い行動しても、それが裏目に出てしまう危険性。要するに、一定の条件下(あるいは限られた集団や範囲)では正解と思える行動や判断も、社会(あるいは世界)全体を対象とすれば完全ではないという事である。
 「合成の誤謬(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%88%90%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%AC%AC)」とか「総論賛成各論反対(https://kotobank.jp/word/%E7%B7%8F%E8%AB%96%E8%B3%9B%E6%88%90%E5%90%84%E8%AB%96%E5%8F%8D%E5%AF%BE-553456)」など、多少の差違はあれど似たような言葉は数多く存在する。数学的には囚人のジレンマ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9A%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9E)と呼ばれる問題としても理解しても良いかもしれない。

 これは、部分と全体の対立により生じる問題であると私は認識している。個が個を主張する時、こうした問題がクローズアップされていく。一般的に合理的な判断とは、全体の合理性を目指すべきものだと考えるだろう。だが、現実には一定の範疇における合理性のみしか問えていない現状がある。私たちが直感的に合理的であると理解できない事象は、存在自体が合理的とは認識されにくい。だが、複雑な現代社会において求めるべき合理性は、むしろ私たちが一般的に考える「合理性」とは異なる形を持っているのであろう。自分が最も重要視している基準からすると不合理とさえ思える方法が、実のところ最も合意的である可能性すら存在する。
 近年のAIの急速な発達により、人間が想定できなかった手法が見出されるケースもちらほらと生れ始めた(http://japanese.engadget.com/2016/08/07/ibm-watson-10/http://www.将棋戦法.com/category12/entry44.html)。チェスや囲碁・将棋でも人間が負け始めている。現状で実用されているのは膨大なデータを検索して最適を見つけるスタイルのようだが、中には人間では予想できない手法を見つけるケースは現れている。また実用化がいつになるかはわからないが、人間と同じような思考や推論を駆使しながら問題解決を行うことも研究が進んでいる(http://hiptokyo.jp/hiptalk/wiredai2015_02/)。
 社会問題などは、必ずしも一つの絶対的な回答があるものではない。だが一定の指標を導入すれば対案に優劣をつけることは可能になる。判断基準の曖昧さは残るが、AIが人を越える思考能力を獲得する時に私たちは下された判断をどのように捉えるであろうか。

 話を少し戻そう。社会的対立構造は多くの場合尺度や指標の異なる倫理あるいは主義主張を持ち出し、それが先鋭化することから発生する現象だと考えている。もちろん、私たちや政府が常に合理的な判断(特に現実主義(リアリズム):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9)が人間社会における最適な選択をしているとは限らない。社会の主役はあくまで人間であり、その行動原理はある種曖昧な人間の感情や感覚の尺度の総体により決まるからである。
 様々な場所で持ち出される主義主張や倫理を背景にした感情論(例えば9条問題や、原発反対運動等)は時に理解できるケースもあるものの、最終的な決断としてその全てに同意できるかと言えば躊躇ってしまう。むしろ、感情論を煽る様な報道や政治的なキャンペーンに対しては、裏の目的を勘ぐることすら多い。あたかも人の心理を利用する扇動として用いられやすいことを想起させる。
 知性も時に狭窄的・独善的な尺度をもって主張することはあるが、排外的な主張としては原理主義が一番に想起される。宗教しかり、市民運動でもしかり。もちろん外交政策もそこに含まれることはあるだろう。

 とは言え短期的なムーブメントとは異なり、一般的に倫理や主義と呼称されるものは一定の歴史的洗礼を受けている。例えば、哲学者や歴史学者あるいは社会学者たちが様々な視点からそれらを論じているだろうし、社会的実験による検証がなされている事例もあるだろう。それ故に、あたかも一定の真理を持っている様にも見える。しかし、政府の行動にしても多種多様な理論にしても、常に正しいものなど存在しない。その時々にもっとも適した手法を選択し適用することが重要なのである。
 善意が地獄に導く危険性が指摘されるのは、それが絶対の真理と誤認されることから生まれると考えている。どれだけ「良いこと」であっても、それを実行すべきタイミングがある。時と場所をわきまえない善意や正論は、タイミングが悪ければ単なる迷惑な行為となることも多く、またそれが機を逸した社会的なムーブメントになってしまった時には戦争の道に繋がることすらある。私は、以前より「正義」などというものは相対的なものであると何度も書いてきた。善意も同じように表現できるかもしれない。

 往々にして右派が国を戦争に導く存在のように喧伝されるが、アメリカにしても戦争に突入させるのは意外とリベラル系とされる民主党大統領の時の方が多いのだ。もちろん現実には党派で明確に言える訳ではなく、民主党にも共和党にも好戦的な人はいる。だが、私の個人的な感覚で言うと善意や正義を信じる人の方が、ぎりぎりまで我慢するが暴発しやすいとは感じている。
 他方で、日本人全般にも言えることかもしれないが、相手のことを考えて自主的に協調したり譲歩を重ねて、譲れない線に来たら大きく反応する。もちろんそれが直ぐに喧嘩や戦争に繋がる訳ではないが、対立の可能性を低く見積もっているほどに、その状態に陥った時の対策を有していない。むしろ、最初から対立することを想定している方が柔軟な対応を取ることができるのではないかと思う。もちろん、善意をもって接しているのは間違いなく前者の方である。
 なぜ、そんなことが生じてしまうのだろうか。善意をもって接することがいけないのだろうか。実は、善意にも常に期待値は存在している。博愛主義の見返りを求めないそれであれば、譲歩した相手の腹立たしい言動について立腹することもなかろう。だが、現実には表に出さないだけで自らの譲歩や協調姿勢に応じた対応を求めている。むしろ、それが当然だという強い思い込みがある。

 しかし、こうした期待は裏切られることが多い。今の日本が感じている雰囲気はまさにそれではないだろうか。協調的な行動は、基本的に相手側も同様の認識(多くの場合は同様の利益の存在)があることを前提にしている。それ故に双方に同方向のメリットがない場合、譲歩を重ねるほどに相手が図に乗って供給をエスカレートさせるケースもある。相手側が別の方法に魅力を感じる、要するに舐められるのである。譲歩は自分が圧倒的に有利な立場にある時には、その意を相手も間違いなく汲み取れるだろう。だが、優位性が低下するほどに譲歩の価値が薄れて行く。むしろ、相手方からすれば弱腰あるいはチャンスと勘違いされる。
 そして、予想を大きく下回る返答、要するに無意識に想定していた見返りがなかった場合に、理性的な行動は破綻をきたし最も感情的な反応を生じる。元々相手に対する期待値が低ければ、そのような事態には陥りにくい。善意に裏側が無ければこのような問答は無意味であるが、実際の善意にはほとんどの場合裏に込められた期待があるのだ。それは、時に感謝の言葉でもいいし、あるいは同様の譲歩である場合もある。
 期待値が高いほどに、その反動が大きくなるのは誰もが知っているだろう。親による教育熱も、恋愛における一方的な期待も同様だ。失望したファン心理のように、大好きであったものが嫌悪の対象になるというのはあまりにありふれた光景である。

 もちろん、単なる失望だけであれば問題は大きくなることはない。だが、そこに複合的な要因が絡んだ場合はどうなるのか。教育が行き過ぎて体罰や虐待にエスカレートするのは、期待が依存にまで進展していることの証しであろうと私は思う。真面目で多感で純粋な人ほどその反応が大きくなりやすい。
 実はそこに掛けられている期待は、遠い未来を求めるような曖昧なもの、あるいは手が届くと言う確信の無いものが多いのではないかと考えている。一歩一歩着実に物事を推し進める人は、に夢を持っていたとしても直面する現実に常に向き合っている。だが遠い夢を何度も見続けることであたかも容易に実現すると思い込んだ人は、目の前にある現実を軽んじやすい。遠く淡い夢だからこそ、夢想的に期待をかけられる。現実が醜悪で容易に思い通りにならないからこそ、そこにのめり込む。過度な期待を込めてしまう。
 その夢が、人生を賭けるような状況になければ行動の自由は担保されるだろう。しかし、そこに人生の全てを賭けてしまえばもはや逃げようはない。醜悪な現実が嘘だと自己肯定するしかなくなるのだ。それが時に突発的な行動を引き起こすと考えている。

 おそらく、多くは良かれと考えた行動から始まっている。しかし、その善意はどの程度の詳細な見通しがあるものなのだろうか。善意は建前上尊敬され賞賛されるべきものであるが、手放しで常に良いとは限らない。時と場所と機会を間違わないことが求められる。そして、間違った善意を押し通すとするときに、思わぬ道に嵌りこんでしまうのであろう。