Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

完璧を追う愚

 世の中では、おおよそほとんど全ての事象において表と裏の両面が存在する。普段から意識しているかしていないかは別としても、誰しもがその存在を認識しているはずだ。中には強固に「そんなものはない」と主張する人もいるだろうが、仮にそれを認識していないと言うのであればかなりの変わり者(お人よしを含めて)であり、あるいは単なる嘘付き(もしくはプライドの塊)かもしれない。非常に稀なケースではあるが、マザーテレサの様な聖人の可能性もあるがもしれない。ただ、多くの人は物事を断定できない難しい社会の中で、毎日毎時刻、何らかの小さな意思決定を繰り返しながら生活している。そのために、自分の立場に即した表裏を頭の中で決定している。
 なお、ここで用いている裏と表という言葉自体にも複数の意味があり、光の面と闇の面あるいは全く立場の異なる二つの正義など一つの言葉で定義しきれない複雑さが内包される。ただ、普段の振る舞いではあたかも裏は存在しないように見せかけるのは、社会を円滑に進めるための知恵なのだろうと想像する。

 一方、現実を見てみると様々な場面で人は自らの立場から一定の主張を表と認識し、他方を裏と理解する。その選択は人によりそれぞれ異なる。客観的に見ると、本来表裏に主従関係はほとんど存在しない。例えば社会問題ともなる賛成派と反対派が衝突する数多くのケースでは、建前上お互いに相手側の主張に深く耳を貸さない。バランスを取ろうという人はそもそもそんな自己主張には参加しないというのはあれど、基本的に自らの主張とは異なる裏の意見に対して手厳しい。特に交渉の場合にはもっと難しいもので、最終的な妥協点を探ろうと動き出す時、得てして強硬に譲らなかった方が得をするといった面が存在する。相手のことを考えて小さな譲歩を繰り広げてきた方が結果的に損をするという、意図的に行われる「ごね得」のことである。
 散々話題になっている日中や日韓における国家間の鞘当ても、おおむねこのパターンに入ると考えている。それ以外にも、誰(多くの場合は自国民)に対して主張しているのかといった問題もあり明確に自己主張のみとは考えていないが、それも含めての交渉事である。結局のところ、譲歩は小さく数多くではなく最後にズバッとというのが良いようだ。交渉テクニックとしては優れていても、時間が長引けば早期の妥結を望む声が出てくるのも世の常。日本は小出しの譲歩で「これ以上引けない」と思う場所まで早期に近づいてきた。そして突如踵を返して絶対反対に意見が変わる。もう、これ以上は一切妥協しないと。

 ところで、今回は国際的な対立関係の話をしたいわけでは無い。あくまで個人レベル、生活レベルの話。私たちは普段の生活でどのようなバランスを維持できているのだろうかと考えてみたい。前述の「ごね得」は、我を押し通すことで相手の譲歩を引き出す戦術であるが、個人レベルではこうした行動のきっかけは多くの場合、論理的ではなく感情的に引き起こされている。それは偶発的のようにも見えるが、それでも若干は意図が巡らされた偶発性を装った行動であることも多い。
 人間により構成される社会だからこそ、人々は論理によってのみでは規定できない。もちろん極論を言えば感情すらも論理的と定義できなくはないが、ここではその議論に踏み込むことはしない。私は人間社会のあらゆる問題は明確に線引きなどできるものではなく、おおよそ妥協に妥協を重ねて決定していくものだと思っている。
 人それぞれの性格は異なり、重視するものも違う。そこに加えてそれまでの人生における環境も異なるとすれば、国家が(北朝鮮のように)強制的に従わせでもしなければ皆の意思が一致するなどと言うことはありえない。特に多様性を重視するこの時代、その傾向ますます強くなっている。この流れは後戻りをすることがないと思う。

 さて、交渉テクニックとして「ごね得」について触れた。これは強硬に主張するほどに、周囲が折れてくる状態を示す。だが、同じようなことは完璧主義者においても言える。完璧を目指す。一見、素晴らしい能力の持ち主であると感じられるようなこと。確かに、その完璧さが個人レベルに内包されているものとすればそうであろう。
 しかし、その完璧さを周囲に求め始めた途端に、完璧さが与えるプレッシャーが関係性を蝕み始める。完璧性そのものが悪い訳ではないが、それ故に個人同士の手法がぶつかる時、集団としての関係性にひびが入る。例えば芸術家であれば、自分一人であるいは自分の完全ある指揮下にいる者のみで完璧さを追うことは出来よう。だが、個人で為し得ない業務や創作の場合はどこかに妥協を求められる。
 もちろん、妥協を如何に少なくするかも一つの追い求める道筋となるが、その場合にはどちらかと言えば最初から完璧を主張して進行と共にじりじりとそれを後退させる主張はいただけない。むしろ、当初は多少甘い見込みで行きながら、それでも常に完璧に近づける方向に向き合う姿勢の方が有効だ。

 要するに、「完璧さ」はゼロサムゲームのようにオールオアナッシングを最初から宣言しているのである。完璧でないものは基本的に失敗という流れで妥協するのではなく、最後まで不完全なものを完全に近づける努力をする。その流れの中に完璧さに近づくための方法論が隠されていると思う。
 そもそも人間は脳内でいくら完璧に思考しても、それを実現できるかどうかは確実ではない。仕事の評価や子供の教育方法でも良く語られるが、減点法ではなく加点法を取る方がモチベーションが上がりやすい。心理がポジティブに機能するからである。甘えや付け上がりを許容するのとは異なり、想定よりも高い位置を目指し続ける状況を作り出す。
 私は思うに、自分自身のことを最も理解しているのは自分であるが、同時に自分自身のことを最も理解していないのも自分である。前者は「考え」に言及したもので、後者は能力に言及した表現である。もちろん第三者の認識が常に自分自身より正しいというつもりはないが、個人レベルでは能力を努力と研鑽によりカバーしてしまうことはできても、チームの場合には容易ではない。

 芸術でも何でも、完璧や真理の追究を忌避するのが良いとは思わない。私たちは永遠に届かないかも知れなくとも、その望みを捨ててはいけないと思う。だが、同時にそれに拘泥することも愚かしい。完璧というものは「ごね得」のような交渉のためのテクニックではない。たかが人間が想像できる完璧など知れていると考えながらも、それに近づけるべく研鑽を図るための支柱として傍に置くべきものではないかと思うのだ。
 追うのではなく、考え続ける。完璧は行動の先にあるのではなく、感じ取るものとして存在している。