Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

他者の夢を借りる

 夢は自分で描くものだというのが多くの人の認識だろう。いや、わざわざこんなことを定義づけることすらおかしいので、何をくだらないことを言っているのかと思う人もあると思う。私たちは自分なりの夢を描き、そこに希望を見出し、そして夢に届かないことで挫折する。こうした一連の流れが当然だと思っている。もちろんアメリカンドリームは遠い昔となった今の時代、抱く夢のレベルは昔と変わったかもしれない。それでも、抱く夢の大小は別にしても夢が個人的な欲求からスタートしているという前提は変わらない。私たちは、自分のための人生を自分の欲求に基づき生きていくのだ。
 しかし、それは本当にそうなのだろうか?

 最近思うこととして、人々は他人の夢に寄生することの方がずっと多いのではないかというのがある。親が描いた夢、友人の持っている夢、伴侶の抱く夢。そこに自分の夢を重ねる、別の言葉で言えば寄生させる。アイドルの成長過程を追いかける。それは、成長の努力を続けるアイドルに自分の姿を重ねることで、一時的に夢を共有している。漫画も小説も映画もそう。
 そんなことは前から知っていると言われると思う。そのとおり。考えてみれば当たり前のこと。だが今の時代、自分が自分のために抱く夢がどんどんと縮小していき、他人の夢に少しずつ寄生していく生き方が主流となってきているのではないかという懸念を私は抱いている。言い方は悪いが、寄生虫のようにあるいは憑依霊のように他人の夢に住みついて生きていく。もちろん自分の夢を完全に捨て去った訳ではない。だが、自分の夢を追い求めるのではなく、むしろコンビニエンスな手近な他者の夢に安住することで、あたかも自らの夢を追いかけている様な錯覚を抱く。

 私のように、大事なことを放り出してツマラナイことを考えているような人間には、それ故にたまに気付く当たり前のことがある。自分オリジナルの夢を持つのは、実のところ容易なことではないということに。考えてもみよう。金持ちになりたい。総理大臣になりたい。あるいは有名芸能人になりたい。その夢はどこから生まれて生きたのか。多くの場合は誰かの事例(時には実物ではなく本などの情報、あるいは想像上の人物でもよい)を起点として生み出してきたものであろう。成功の物語を、偉人の話を私たちは幼いころから聞いてきた。要するに私たちが抱く夢は、他者の姿を土台として発展させたものなのだ。
 だとすれば、他者の姿に自分を重ねるという行為は悪いことではなく、私たちの生活の中に染み込んだ、そして当然のように普段から頭の中で行っている行為に過ぎない。慣習と言っても良い行為がそれにあたる。夢は慣習なのか? 理想とする夢が慣習により生み出されているとは考えたくはない。
 子供たちは、親の振る舞いから社会における自分のスタンスを最初に学習する。良い教師と悪い教師を見比べて、良い教師の真似をしようと努力する。あるいは強い(時に暴力的な)人物を自分に重ねて悦に入る。私たちは日々そういうことを繰り返している。それは年齢には関係ない。子供だけのものではないのだ。高齢者が明確な自我を確立し、他人の姿を参照にすることがないというのは誤解だと思う。確かに、性格や考え方が固定化しており子供よりはその動きが少ないとは思うが、高齢者も自分の夢が抱きにくくなるからこそ子供や孫の夢に自分を重ねるのだ。

 さて、それでは振り返って自分オリジナルの夢とは何なのだろうか。他人の夢・他人の在り様への寄生から独立し、自分の夢を追いかけるようになるのはどのような状態なのか。例えば、明確な自分の夢を抱いたからといって、他者を必要としなくなるわけではない。他者の夢を活用することで、私たちは新しい発見を得、あるいは可能性を見出す。大切なのは、自分自身が実現すべき確固たる夢を信じて持ち続けていることなのだと思う。第三者から見ればオリジナリティに欠けていようが、そんなことは問題ではない。
 こうした言葉で表現してしまうと、これまた当たり前のことではないかと言われるだろう。まさにそのとおり。当たり前のことである。大切なことは、自分の夢を明確に主張できない人であっても、他者の夢を借りるという意味においてその前段階は既に経験している。
 しかし、それが本当に自分の夢だと言えるようになるには、慣習とした身の回りにまとわりついたあまたの夢の中から何かを掴みだすことが必要になる。そう、夢とは多くの人の夢の海の中を泳ぎ、必要のない夢を削ぎ落していった先に、自分の手元に残るものではないだろうか。

 これは、あくまで私の個人的な感想に過ぎない。だが、夢とは築き上げるものではなく、そぎ落とした先に残るものだという認識は、自分自身を納得させてくれる。もちろんそれは淡い願望とは異なる意味における夢のことである。