Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

心理的潔癖症

 潔癖症潔癖 - Wikipedia)という言葉がある。過度な清潔さに限らず徹底的な行動をすることを示すキーワードだが、時に原理主義にも似た感覚を受け取ることがある。一方、最近は除菌クリーナー等の普及により従来潔癖症と分類されないような人たちも、ライトな意味で近い習慣行動をしているように見受けられる。徹底的な綺麗さ・清潔さに固執するのではなく、どちらかと言えば綺麗な方が良いという軽い感じではあるが、除菌効果がどれほど私たちに寄与するのかは疑問だったりもする。また、潔癖症という強迫観念による場合は別としても、たやすく除菌に頼ってしまう状況は人の免疫力や菌に対する耐力を低下させてしまう問題があるという意見(アルカリ石けんが「悪玉菌」の勢力をのばす!? なぜ日本人は「除菌・抗菌」にこだわる?|健康・医療情報でQOLを高める~ヘルスプレス/HEALTH PRESS)を見かける。確かに、人は様々なストレスを受け強くなっていく側面がある。筋肉増強のシステムは甘さに筋線維の修復機能を利用したものであるが、それは学習面でもそうだし、心理的側面においても言える。私たちは適度な(自分が耐えられる)ストレスを受けることで発奮し、打ち破る力を蓄えることで成長するのである。

 他方、文明の進化は耐え難いストレスを如何に軽減するかという目的により成り立ってきた側面を持つ。私たちは常にいかに楽を出来るかを考え、その実現に執念を燃やしてきた。技術開発により、多大な労力が必要だった家事から巨大な工事や複雑な計算まで、技術が生み出したモノは私たちが受けるはずだったストレスを大きく軽減してくれる。人間が負っていた苦労を機械やコンピュータに負担させ、その時間を活用することでより高いレベルの何かを生み出していくという形であれば意味があるだろう。あるいは退廃的かもしれないが、機械が働くことで人々が労働から解放されるという夢物語もかつて囁かれたりもした。しかし現実を見ると、機械やコンピュータに仕事を奪われた人たちがブルーワーカー的な低取得の仕事しか見つけられなかったりする危険性もある。そのような結果になるとすれば、技術の進歩は社会にとって本当に良い事なのかを考える必要がある。

 かなり話が逸れたが元に戻そう。私たちは生物として適度な負荷(ストレス)を受けることで進化・成長してきた。ストレスが過度になれば私たちは肉体的あるいは精神的にダメージを受け、成長には結びつかない。だが、適度な範囲でのストレスは負荷が高いほどに私達の能力向上に役立つ。また、ストレスと一括りに言っても、その種類や内容は多種多様である。大部分のストレスには抵抗できても、一種類のストレスに抵抗できなければ心が折れてしまうこともある。特に心理的なストレスは傾向が強い。そして最大の問題は、ストレス耐性は人により大きく異なることである。同じストレスも、余裕を持って耐えられる人もいれば、直ぐに限界を迎える人もいる。そして、技術が肉体的なストレスから私たちを解放したからといって、心理的なストレスからの解放も付随しているという訳ではない。むしろ、肉体的なストレスが少なくなったことで心理的ストレスが今では中心になったと考えた方が良い。

 肉体的な抵抗力は、筋肉の保持量や負荷時の経過を見ればおおよそ想像できる。だが心的な抵抗力は目に見えないし、制限値自体が心理的な状況により大きく変動する。そして最も重要なのは、一度制限値を超え傷つけられた心は次に制限値を大きく下げてしまう傾向が高いことである。具体的事例を上げれば豆腐な様なものである。一度崩れれば二度と同じような強さを持ち得ない。肉体であれば、本能的なストッパーが働きギリギリまで追い込むことを回避できるが、精神の場合にはストッパーも修復も容易ではない。だからこそ、私たちは限界を超えないように配慮しながら抵抗力の閾値を上げていく努力が必要になる。それは前向きな気持ちを持っていないと難しいことであり、逃げに回り始めると心理的要因で容易に自分の限界地が低下してしまう。

  そうする理由は、人が生きていく上で心理的なストレスは必ず存在し、それは決して避けて通ることはできないからである。豊かで楽しい人生は、こうしたストレスから逃げ回るのではなく、自分を成長させる重要な要因としてポジティブに活用することから始まる。嫌な事やストレスを飲み込める懐の深さを獲得するということである。その能力獲得には適度な心理的ストレスをコントロールすることが重要だが、その方法を生み出す明確な方法論はあまり明らかになっていない。場合によれば、啓発セミナーのような心理的依存を生み出すことで、ストレスを誤魔化してしまうようなケースもあり、良い方法が世の中に出るのを期待したい。

 さて、心理的ストレスの原因は基本的に自分にとって嫌な事である。すなわち、社会的には程度はともあれそれを悪と定義できる。善悪の二面で考えれば悪になってしまうが、薬も量を間違えれば毒となるように、包丁も使用方法を誤れば武器となってしまうように、ストレスも程度を調整できればプラスの側面を持つ。本来、薬と毒が明確に分かれているのではなく、人の体に好影響を与える物質を薬、そうでないものを毒と定義しているに過ぎない。私たちはどんなものや事にも両面があることを認識しなければならない。要するに程度の問題であり、何かを悪と決めつけるのはよくないのである。

 ところが、最近の社会問題を見ると極論がまかり通るケースが多いなと感じることが多い。例えばこんなニュース(防犯ポスターに「短いスカートが性犯罪を誘発」 批判受け菅公学生服が謝罪(ねとらぼ) - Yahoo!ニュース)。物事には両面がある。学生服メーカーの言い分にも私は理があると思う。自治体が出す萌え絵ポスターなども議論を巻き起こすことが多いが、個人的な感想を言わせてもらえば騒ぎ過ぎだと思うのだ。もちろん、行き過ぎは良くないと思うのだが、全てを悪のように断罪する声が大手を振ってまかり通り、物事の多様性を委縮させ続けている。芸能界の不倫問題とかも、私は正直に言えばどうでも良い。そう言うゴシップも含めて売るのが芸能人なのだから、謝罪会見等を聞くと馬鹿らしくて力が抜けてしまうのである。

  同様の事は、一部の人権活動においても感じる。犯罪は罰せられる必要があるし、極端なハラスメントはあってはならない。だが、ハラミ会(ハラミ会とは (ハラミカイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科)のような状況が広がるとすれば、それを恣意的に生み出して誰が得をするのであろうか。私は心理的な耐性の低い状況が、心理的潔癖症に陥っているのではないかと危惧している。繰り返すが、ハラスメントを推奨するつもりもないし、人権活動の根拠を否定するつもりもない。だが、物事には丁度良い程度がある筈なのだが、それが善と悪の二元論に集約されてしまい、結果的に社会を委縮させてしまうとすれば、それが本当に良い形なのかと考えてしまう。ポリティカルコレクトネスが話題になったのも、こういった風潮を背景にしていると考える。どこかでこうした流れの落としどころを見付けなければ、社会が抱える歪は今後も広がっていくのではないだろうか。確かにストレスは善か悪かで問われれば悪である。そして、人によっては信じられないような行為をする人もいる。それを許容する必要はないし、真に悪であれば断罪すればよい。だが、個人的な考えとして世の中を上手く生きるのは、自分自身の耐性を高める方策がもっともしっくりと来るのである。