Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

抽象的理解

この話を何処で聞いたか読んだかはっきりと覚えていないのだが、人の頭の良さとは抽象的な事項をどれだけそのままの形で理解できるかである。。。と言う話がある。
確かに素人からすれば、数学や物理学の最先端の抽象性は理解どころか、何をテーマにしているのかすらわかりづらい。だから、科学ライターなどがそれを具体論に落とし込んだ説明を見聞きして、ようやく何となくわかった気になるものである。

逆に、通を気取りたければ曖昧な抽象論を繰り返すことで相手を煙に巻くことができる。もっともそれを専門家の前でやれば大恥をかくし、素人であっても少し論理的に考えれば矛盾や欠陥を指摘されることもあるだろう。
されども漫然としたイメージの中では抽象論の価値も意味も高く感じられるのは、誰もがそこに難しさを感じるからかもしれない。大学の講義が難解なものが多いのは、大きな事柄を教えるためにどんどんと定義付けをしていくことがある。その定義や置換が複雑で抽象的であればあるほど、その中身を明確に意識することが難しい。本来の目的はより多くの知識を理解するために抽象的な事項を利用するはずが、逆に抽象的な事項を多く利用することがより高度な内容を扱っているように感じられるようになることがよくある。業界用語を使えばツウに感じられるというのと似ている。
業界用語は、そもそも他の言葉と混同を防いだり差別化を図るなどの理由で用いられることが多い。もちろん、気づけばファッションの一部になっていることも多いのだが、その用語を知っているからと言って業界に精通している訳ではない。

抽象論も全く同じ。抽象的なことを多く語れるからと言って、抽象的な概念の本質論を十分理解しているのとは限らない。抽象論はその理解や扱いに様々な知識が必要である。それ無しに論を振り回しても本来は空虚なだけなのだが、それでも見かけ上はそこに空虚さは容易には見えない。それ故、まるで虚飾のような曖昧模糊とした言葉が用いられてしまう。
実のところ内容をよく理解せずに使っている本人すら、何となく満足してしまうという意味で抽象的な言葉は便利でかつ罪深い。

人々が内容が抽象的だと感じるポイントは、一般的ではない定義付けされた概念が多用されることにある。その用いられている概念をきちんと理解しなければ、おぼろげに全容はわかるものの具体には何の話をしているかがわからない。逆に言えば、具体性が乏しい内容であってもそれらしい定義の専門的な言葉が用いられていると、もっともらしく聞こえてしまう。実のところ、説明している側でさえ専門用語の意味を理解していなかったとしても。
TVなどで見られる専門家が外来語を多用する傾向があるのは、その方が実態を正確に捉えている場合もあるのだが、どちらかと言えば日本語での説明よりも外来語を利用した場合の方がより高度な概念のように聞こえるからであろう。よくよく聞いてみると、話している内容はごく普通の事柄であったりすることは多い。

最初に、人の頭の良さが抽象的な事項を如何に理解できるかと書いたが、そこに含まれる数々の前提たる概念を十分理解しているからである。そこに曖昧さが残っていれば内容が複雑になればなるほど、詳細な理解が難しくなりイメージの誤差が広がってしまう。一般の人は、おおよそわかればそれで満足しがちである。だからこそ、抽象論を難しいと感じてしまうのだ。
なお、世の中には前提を知っていなくても抽象的な内容を正確に認知できる人も存在する。おそらく、自分なりに組み上げた論理的構成のいくつかのパターンを利用して、それに当てはめることで正確な類推をするのだろうと思うが、この能力は誰でもその訓練を繰り返すことである程度までは高めることができる。

どちらにしても、抽象的な論理を構成する数々の前提条件や仮定を理解しようとする努力無しには、なかなかそれを使いこなすことは難しく、それ故に抽象論を振り回す人は胡散臭く感じられるものである。そして、抽象論を人を騙すために積極的に使うことはあまり得策ではない。同じことを繰り返せな飽きられるし、言葉を紡げば紡ぐほどにボロが出やすくなるからである。
ただ、わかっていながらも難解な言葉を多用してしまうのは、自分自身をこそ誤魔化そうとしているからかもしれない。

「人間は何重にも重なった関係代名詞になると、きちんと理解できないとも言われる。前提に前提を重ねれば、物事の本質はやはり見えにくくなるものだ。」