Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

平和は目的か結果か

平和を強く主張する者たちは、正論のように聞こえる言葉を発しながらも同時に胡散臭さも帯びていることがある。真面目に平和を求めて行動する人達には申し訳ないが、軍拡を止めない中国も、独裁国家で国民を飢餓に追い込む北朝鮮もミサイル実験を平和的な人工衛星打ち上げだと強弁する。
なんのことはない、平和という言葉が都合よく利用されているに過ぎない。そのまやかしについては多くの人がとっくの昔に気づいているものの、平和を前面に押し出す彼らの言う平和は自らのみの平和であって周囲に与える脅威には関心がない。そんな独善的な平和であっても「一発だけなら誤射」などと共感を示す向きもあるが、独善的な平和が未来に向かって目指すべき平和などではあるまい。

ただ、私自身は本当に世界中がすべからく平和を迎えられるとは思っていない。観念的な理想論としてはある程度理解できるものの、同時に現実のそれは世界の死を意味するのではないかと考えてしまう。私たち人間は安定のみで生きていける存在ではない。別に戦争を肯定している訳ではないし、もちろん擬似的な平和を味わうことは可能だろう。実際のところ前の世界大戦からは既に60年以上経過している。日本は、武力による戦争からは十分長い間距離を置くことが可能であった。平和に加えて経済的な繁栄も見たのだから、これほどの幸運は世界においても珍しのではないだろうか。
その幸運な日本において目指すようになった平和だからこそと言うべきか、自らを認識の枠外に置いた世界平和が結構叫ばれているように思う。「世界が平和でありますように」という言葉は、日本はこのまま平和であることが当たり前と言った雰囲気が感じられるのだ。だからこそ、自らを除いた世界が平和であることを枠の外から祈っているとしたイメージが拭いきれない。果たして日本は今後も平和でいられるのか。それは不断の努力無しには実現し得ないものである。言葉尻を捉えたくはないのだが、純粋な願いとしては成立しても平和を実現する術はおそらく泥臭いものであろう。その泥臭さがこうした願いからは感じ取れない。

こうした現実感の希薄さは、平和というものを究極の目的と捉えているからかもしれないと感じている。平和が希求すべきものであることには疑いはない。しかしそれが全ての解かと問われれば、自信を持って断言できるだけの確信は私にはない。おそらく、現実的な答えとすれば揺れ動きながらも世界的な争いを最小限にすべき行動をとり続ける。そのためのオプションは全て排除しないということではないかと思う。
私は日本の核武装については現状においてどちらかと言えば反対だが、議論すらしないと言うのは明らかにおかしいと思っている。それは確かに汚い手段かもしれないが、それでも平和維持のオプションの一つを手放すことを意味するからである。

平和という概念上は明確であってもその維持すべき手法が明らかではなく、状況に応じて変化するものに対処するためには、それを維持すべきだという明確なメッセージは非常に重要ではあるが、同時にその維持のためにはあらゆる可能性を持ち続けておくことが重要だと思う。
その一部を自ら縛ることは、平和維持のための手法の範囲を狭める。平和が日本自らのみの努力で維持できるのであれば取るべき手法の数を減じることもできるかもしれないが、世界のバランスの中で追い求めるものだとすればあらゆる可能性は排除し得ない。

すなわち、平和という概念を追い求めることは何より重要ではあるが、そのための手法が平和的でなければならない訳ではない。平和は目的として抱かなければならないが、その目的通りに遂行できるとは限らず不断の努力の結果として得られるものなのだから。

「平和は概念の中では目的であり、現実には結果でしかない。」