Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

床屋談義

 週刊文春へのバッシングが拡大している。経緯についてはわざわざ私が書き記すまでもないだろうが、文春が「安藤美姫選手の出産を支持しますか?」というアンケートを行ったことからスタートしている。このアンケートをネットのことを大きく取り上げると、各所で文春の行為や姿勢に対する反論が湧き上がった。
 反論は至極当然のことであって、私もこの件におけるメディアの横暴というか傲慢さは正直カチンときた。個人の出産を支持するも何もないだろう。そんなものは個人の自由であり、私たちが彼女に期待するのは再び素晴らしい演技を見せてくれることである。確かに安藤美姫選手はメディア露出も多いスケート選手で、公人的な部分があるのは間違いない。しかし、この露出は露出そのものを糧とする芸能人やそれを機会と捉える政治家とは明らかに異なる。
 スポーツ選手の場合には、彼ら彼女らがスポーツに打ち込む姿やその成果を、メディアが視聴率を上げるために取り上げているに過ぎない。だから公人として取り扱われる部分は存在するとしても、政治家や芸能人などと比較すればそのプライベートは当然守られるべきだと思う。
 それでも、彼女もテレビに出演して出産の事実を明らかにしたのだから、それ相応の覚悟があったことは理解できる。メディアに追いかけられる存在である以上、いつかはそのことが知られることになる。だから、自らにとってキリの良い時期に公表することを決意したのであろう。

 逆に考えれば、自ら望むと望まざるとに関わらずそうした義務感を彼ら彼女らに社会(当然メディア)は与えている訳だ。私は、彼女が出産の事実を明らかにしたこと自体には興味はない。それよりも、今後の選手としての復帰が本当に可能なのかを危惧する。それは、出産という機会を経たことによる肉体的変化と、ここに至る種々の出来事から来る心理的な負担である。

 さらに、文春へのバッシングはアンケートを行ったことだけではなくあたらな展開を見せている。編集長名で謝罪とアンケートの取りやめが発表されているが、その中身がまた驚くべき内容なのだ。

 現在、「週刊文春」メルマガ読者の皆さんにお願いしている「緊急アンケート 安藤美姫選手の出産を支持しますか?」について、抗議のご意見を多数いただいております。
 女性の出産という大変デリケートな問題にもかかわらず、設問を「出産を支持しますか?」「子育てしながら五輪を目指すことに賛成ですか?」としてしまったために、出産そのものを否定したり、働きながら子育てをすることを批判しているような印象をあたえてしまいました。その点については、編集長の私の責任です。このアンケートに関して不快な思いを抱かれたすべての方にお詫び申し上げます。
 今回のアンケートは中止させていただきます。ご回答をいただいた皆様にお詫び申し上げます。

週刊文春」編集長 新谷 学

 お詫びは、一般論に終始し一切安藤選手に対して向けられたものでは無かった。これがまた文春批判に再び火を付けつつある。天漢日乗さんに書かれている内容によると、これは文春の方針なのだそうだ(http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2013/07/2-4bbf.html)。
 要するに、庶民が悪口や好奇心を含めて好きなことを言い合う機会、「床屋談義」や「井戸端会議」を紙面やネット上で広げておいて、それの何処が悪いと開き直っている訳である。

 そもそも、床屋談義や井戸端会議が成立するには一定の条件がある。まずは、そこで語られたことは当人や多くの人には情報として行き渡らないという点である。もちろん、人の口に戸は立てられないため何からの理由で話が伝わってしまい、喧嘩が発生することもあろう。
 しかし、内容を面白おかしく揶揄できるのはそれが情報的に閉鎖された空間(関係)の中であるという前提があってこそのことである。本来は、それ自体も必ずしも正しくないのかもしれないが、社会的には情報漏れがないことを前提に許容されている。もちろん、情報が漏れて悪口が当人に伝われば責任が発生するのは言うまでもない。

 さて、現状ではこの床屋談義が社会性を持ってしまった(メディアが床屋談義を密室ではなく社会に蔓延する情報として取り扱った)ことが問題を巻き起こしている元凶である。では、本来一部で囁かれることのみを許容してきたこの床屋談義がなぜ外にまで広げられるようになってしまったのであろう。
 私は、これをメディアがニュースソースになる人物を、人間としてではなく記号として扱っているからではないかと思う。記号として扱うことで、レッテル張りが容易になり国民への訴えかけも容易になる。政治家も、芸能人も、そしてスポーツ選手までもニュースソースとして価値ある者たちは皆記号化(商品化)されてしまっている。
 これは、ニュースを受け取る側の国民にもその方が情報が扱いやすいというメリットがある。ありとあらゆる情報が漂っている現代社会では、一つ一つの事象に深く洞察を巡らせるだけの余裕などない。自らにかかわりの深い事柄を除けば、「こういうもんだよな。」というステレオタイプのパターンにはめ込むことがもっとも扱いやすいことなのだ。

 しかし、記号化された存在には人格は存在しない。あるいは存在していないかのごとく取り扱われている。報道を扱うメディアは人格や人権に最も敏感でなければならないはずなのだが、それを一定のパターンの記号に置き換えることで回避しようとしている。
 同じようなレッテル張りはありとあらゆるところで行われている。「右傾化」、「原発推進」、「生活保護」、、どの場面でも、個別の事情がありそれを勘案すれば問題は非常に複雑で難し判断を迫られる。こうしたニュースの記号化は、それでも流れを大雑把につかむうえでは一定の役に立つ。もちろん、表面のみを眺めていても本当に重要なことはわからない。メディアリテラシーは、その中身をきちんと理解する行為である。

 今回の安藤美姫選手を巡る議論は、結局のところメディアが人間をその他の物事や事象と同じように記号として捉えていることが常態化していることの現れではないかと思う。だから、文春はクレームに対する謝罪回答が頓珍漢になってしまう。彼らにとっては、安藤美姫選手は記号であり商品と言う「モノ」でしかない。その良し悪しを聞くことに何の躊躇があるのだろうか。
 メディアを巡る議論を考える時、常に人を一定のステレオタイプに押し込めて評価しようとしていることが問題となる。AKBにもみられるように、そのステレオタイプな存在を演じることで成功するような芸能界と言う社会もあるし、あるいはそのパターンを利用しようとする政治家や市民団体と呼ばれる圧力団体も数多く存在している。これらのケースでは、存在をアピールするために敢えて自ら記号化しようとするものが少なくない。
 だからと言って、それを利用しているわけではない多くの人たちにまで同じような扱いをすることがメディアに許されるものでもないであろう。

 床屋談義で終わっていれば、こうしたレッテル張りも問題とされることはあるまい。あるいは、芸能人に対して同じようなアンケートを取っても場合によれば社会は許容するかもしれない(それも、やや難しいと思うが)。ただ、メディアは望んで記号化されに来る者たちとそうでない者たちを混同するような失敗を犯してはならない。こうした人たちの人間性こそをメディアは権力から守るのが役割の一つではないか。