Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

創作者と消費者

人はその多少に違いはあるものの皆創作者であり、同時に消費者でもある。
一般に生活する上での創作はたわいもないものが大部分であろうが、時には世間を驚かすようなものが生まれることもある。創作は「もの」であることもあれば「行為」であることもあり、模倣や変形であることもあれば純粋なオリジナルであることもあろう。
生きていくと言うことは、何かを発信し続けると共に社会からの発信を受け止め消費することであり、その発信と受け止めの流通が社会を構成する。ただし、これらの行為のうち大部分は無意識のうちに行われているものであって、その発信が大きく価値を持つのではないかと考えたときに発信するものは創作者を自認することになる。

創作物の消費とは、その他のものの消費とは少し異なる。人間は生きるために食べるが、生きるために本を読むわけではない。しかしそれはなくても生きられるが、それが無くては生きる意味を見いだせない。本のみならず創作物とは、人が生きる意味を見出すための手段として利用できる。創作物を消費することは、人が生きる意味を自問自答するための糧とできる。
ただ、大部分の人はその可能性を得たことで満足する。自らの知的な好奇心を満たすと言うことで十分なのだ。好奇心を満たすまでで終わり、それを広げるところまでは至らない。創作者はその先を歩む存在であって、人が満足するような新たな何かを生み出す存在となることである。

創作者がものを作る上で、全ての情報を自分の想像で賄うケースは少ない。通常は様々なチャンネルからの情報収集を経て、情報に自らの味付けをすることで新たに再構成された創作物ができあがる。その味付けがほとんど無ければ盗作だと指摘され、味付けが薄ければオリジナリティに欠けると言われる。
一方、その大部分を自ら生み出した発想により賄えば、容易に人が理解できないものとなる。
創作の方法は、違うジャンルからの模倣、オリジナルの改変、意味や構成の変化、新たな発見など様々な用件により分類されるだろうが、それは創作者側の理解に関する分類である。一方で、その創作物を消費する側の理解は、創作物のオリジナリティだけではなく創作物に対する共感が大きなウエイトを占めるように感じられる。水戸黄門の決まったパターンが受け入れられるのは、その独自性や斬新さではなく安心感である。
創作者が自らに課したがるオリジナリティが必ずしも消費者の望むものとは限らないということでもある。もちろん、だからと言って単純なパターン化が受け入れられるわけでもない。慣れが安心に変わるまでの過程においてはオリジナリティが寄与しているのも間違いない。これは、ブランド品などについても言えることであろうが、一定のクオリティがあることを安心できるという面でもあるのかもしれない。

創作者は、創作をするが上において自らの想像のみで次々と新たなものを生み出せるほど万能ではない。想像のタンクは創作しようとする心構えと行動により大きくなるものの、使い続ければ枯渇してしまう。新たな材料を補給する必要性は常に存在する。ギャグ漫画家などが長期間人気を維持しがたい理由は、想像力の枯渇に理由を求めることが出来る。枯渇する前に、マンネリ化が安心感として受け入れられるほどに広く理解されなければと言うことでもあろう。

創作において、ナルシズム的に自分自身の創作を自分で消費してしまうようなケースもあるだろう。別の言葉で言えば、自分の作品に陶酔してしまうと言うことでもあるが、これは自分自身の創作物を自分自身で消費しているような自己完結状態にあるように思う。それは、想像の広がりを阻害し新たな創作活動を続けることを困難にならしめる。まるで自分で自分を喰っているような状態といえるだろう。

人は、創作者である面と消費者である面を同時に持っている。消費したものは創作の糧として再度利用できるという意味では、創作は無限の材料を持っているとも言えなくはない。ただ、多くの人が創作をする面から考えれば、自らのオリジナリティをどのように発揮するかは重要だろう。
そして、創作物が社会から受け入れられるかどうかはそのオリジナリティそのものでは決定せず、そこに共感などの感情の揺れが起こりうるかどうかで決まる。その場合に必要な要素としてオリジナリティは存在し、並行して構成の緻密性やそこから新たに得られる情報などの付加的要素も加味される。

「創作物は生きていく上での必須ではないが故に、興味がなければ陳腐にしか感じられない。ただ、一定の知識があればそこに意味を見いだせる。」