Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

競争と安定

多くの人が競争の必要性は感じながらも、競争の弊害を減らしたいと思っている。確かに一部の平等主義者達が過度の悪平等を押しつけてきたこともあったが、最近ではそれが解消される方向に向かいつつある。もっとも、次に競争側に社会が振れれば結局の所以前議論となったようなことが繰り返されるのであろう。

考えてみれば、そもそも競争は安定を得るための手段である。だとすれば、目的が安定でこの両者は競合関係にはない。ところが、結果であり目的である安定を競争を経ずに得ようとすることから、いろいろな問題は発生する。
それでは、社会に落伍者を増やすだけだなどと偏った主張もあるかもしれない。確かに、非常に絞った分野に限定すれば競争の結果は必ず勝者と敗者が明確に現れる。ただ、それは分野を特定しているからであり、別の分野で別の競争に参加する権利を私達は常に有している。さらに言えば、競争に勝ったときの報酬が高いか安いかは別にして、私達が生きていく上で取ることのできる分野は無限に近いくらい広い。場合によれば、大変な努力は必要だろうが自分で分野を作り出すことすら不可能ではない。

だとすれば、単一の内容に拘って競争を否定する人は、自らが考える生き方の軽重を告白しているようなものではないか。彼らが否定すた分野こそが重要だと主張して、その価値判断を押しつけていることになる。この価値判断の貧困さが、無用な競争への突入と、その対極としての競争の否定という二つの極端な考え方となって対立している。
しかし本来は社会には多様な分野があり、現在はマイナーであってもその価値を社会に認めさせることができれば大いなる成果を出す分野もある。そこに飛び込むという挑戦も決して卑下されるものではない。

さて、目的が安定であってそこに至る手段(あるいは過程)が競争だと書いたが、その競争はその目的を求める人が多ければ多いほど厳しくなるのは当然のことである。それは得られる成果としての安定という果実が大きいことが理由なのだろうが、現実にはその果実は過大評価されることが多い。
その実利たる成果だけでなく、そこに付随する権威やステイタスなどの心理的付加価値が果実を大きく見せる。例えば、東京大学に入学することは将来的な就職に有利だし、東大卒の平均所得は他大学と比較して高いかもしれない。ただ、その差が圧倒的かと言えばそれは異なる。よりよい企業に就職してより高い地位に就きより多くの報酬を受けるということで言えば、東大が圧倒的な有利さを持っていると思わない。もちろん、大学進学をしない人やほぼ無試験で入学できる近頃ありがちな大学とでは明確な差は出るだろう。ただ、平均値でそれを見るのと個別に比較するのであれば、私達の実感は個別ケースを当たる方が近い気がする。

そもそも、人生が一つの競争で全てが決定されるわけではない。逆に言えば安定も必ずしも永続的ではないことになる。生きている限りなんらかの競争を続けるという意味において、全ての競争を回避するという選択肢はあり得ない。もちろん、その大きすぎる変動を回避するために年金や公的な保障が準備されているわけだが、それはあくまで最低限である。
逆に言えば、チャレンジする気持ちさえ持ち続けられるならば、チャレンジする分野は無限に存在するわけだから可能性が潰えることはあり得ない。
「諦めたら終わり」という言葉があるが、まさにその通りである。それは、一つのものに拘った場合のみの話ではない。あらゆる可能性を考えれば、諦めて意欲を無くすと言うことが最も大きな損失であろう。

私達の一般的な知識で知りうる分野は非常に狭い。それ故、視野に捉えられる分野が全てと思ってはいけない。見たもののみに拘ってしまうと、そしてそれが全てだと思い込んでしまうと本当にそれが全てになってしまう。それは、自分の限界もそうだし、視野においても同じである。
可能性は一度では潰えないし、可能性はあらゆる方向あらゆる場所に広がっている。もちろん、あくまで可能性であってそれを掴めるかどうかは本人次第なのは言うまでもない。それでも、忘れてはいけないだろう。諦めたときが終わりなのだと言うことを。

だから、競争を否定する意見については私は正しくないと思っている。それよりは、競争する内容が一つではないことを教え、探す努力をするべきであろう。もちろん、努力無しには成し得ない。競争を否定すると言うことは、その努力や頑張りを否定することと同じではないかと感じてしまうのだ。

「人生は一度の敗北やミスで終わってしまえるほど短くはない。だから這い上がる気持ちが重要であり、それは競争により養われる。」