Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自由と倫理の両立

現代社会において自由は公共の福祉を侵さない範囲において建前上保証されている。公共の福祉を規定するのは、法治国家においては法律がその中心を占めているが、法律以外の慣習やコモンローなども緩やかながらその役割を果たす。
それ故に、私達は法律は当然ではあるが各種の社会規範に配慮を巡らせながら自らの自由を行使する。ただ、社会規範によるそれは明確な境界線があるものでは無く、本人の意識次第で(社会との軋轢は別にすれば)法律以外は無視するというレベルまで緩和することが可能だ。実際、法律以外は守らなくても明確な罰則はないし、一部の人々は法の隙を突くような行為を賞賛することすらある。仁義なき戦いとはヤクザの抗争を描いた映画ではあるが、このケースでは倫理なき戦いと言って良いかもしれない。

一般的に社会の技術進歩が停滞すれば、商品やサービスの過当競争が発生しやすい。革新的な商品やサービスが現れない故の現象である。廉価に抑えることもサービス(あるいは商品開発)技術の一つと言えなくないし、製品販売の初期には大きな効果を発揮する。ただ、その効果も初期に限られた話であって、技術革新の程度の低い同じ様な製品やサービスが溢れ出すと先行者利益は徐々に低下していく。
ブランド化が望まれるのは同じ製品を末永く売るためであり、それが成し得なければ似たような新製品を次々に投入することで目くらましが行われる。誤魔化しきれる間はそれでも結果はついてくるが、いつかはそのメッキが剥げてしまうだろう。
そう考えると、自由競争は極論に至ると非常に不毛な争いを生むことになる。

私自身、資本主義の大きな体系は守る価値があるものだと信じるが、細部においては自由との兼ね合いでその弊害を感じることも少なくない。こうした自由を制限するものとして、法律以外に慣習と倫理がある。法律以外はあまり強い力を持たない拘束であるが、社会のバランスを考える時にこの緩やかな拘束が実のところ社会安定の根幹に関わるのではないかという思いを強くしている。
自由がのさばる社会は世知辛く、それを規則により拘束しようとする社会は息苦しい。その中間の微妙なバランスを保つことを社会の栄智として実践するのが慣習であり倫理なのではないか。
ところが、自由が力を持てばこれらの権威主義的な拘束は抑え込まれがちである。本来、安定した社会を望むメディアですら、自由を主張することも少なくないこの時代に、倫理や慣習の重要性は軽んじられつつあるのではないだろうか。
個人的にはこの両者を兼ね備えるのは道徳ではないかと思うのだが、この道徳教育については今ひとつ社会に広がらない。自由により刹那の利益を得ることは、短期的には意味があるかも知れないが、長期的には社会に歪みを与えることを私達は知っている。とすれば、今の時代にどういった形の慣習や倫理が必要なのかを真剣に考える必要があるだろう。
ともすれば軽んじられがちな事ではあるが、これからの社会を考える上では避けては通れない事項ではないかと思うのだ。