Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

民主主義はシステムではなく、思想

社会主義共産主義が良いとはさらさら思わないが、それでも民主主義というシステムの弊害が目立ち始めてきた。具体的にそう感じる理由は、民主主義(加えて資本主義)という舞台を利用して上手く儲ける層が明確化してきたからではないかと感じるからである。彼らはルールを逸脱して儲けているいる訳ではない。むしろ民主主義社会において定められたルールを最大限利用して、そう特化したスタイルにより利益を得ている。
例えば金融を駆使して巨額の富を得るものや、あるいはベンチャービジネスにより成功するもの、一種資本主義貴族という層が明確に生まれ始めている。もちろんがその陰にある多大な努力やチャレンジスピリットには大いに敬意を表したいと思うのだが、これは現状のルールが変わればいきなり状態が変わってしまう可能性も低くない。
一時期、日本においても消費者金融会社がこの世の春を謳歌していた時期があった。オーナー達は長者番付に名を連ね、テレビCMは一方で倫理問題が叫ばれながらも毎日のように賑わせていた。それが、グレー金利問題から一気に奈落の底に落ちた。
これは社会において当初許容されていたものが、ある時ルールが変わったと見ることが出来る。本来、法律という厳格なルールと別に、慣習法とも言えるような様々な習慣的な約束事があり、消費者金融のそれも時間をかけてその暗黙のルールに大きく触れてしまったが故に事態が急変することとなった。逆に言えばそのすれすれのところを狙うからこそ大儲けをすることも可能なのだ。
ルールの隙を突くことは法律上の問題は無いが、倫理上の問題は残る。そして、この倫理は普段機能していないように感じるが、最終的には判断の変更を持って暗黙のルール逸脱者を阻害する。

ライブドアの騒動も、法的な問題はいろいろとあろうが摘発に至ったのは法律上のそれよりは倫理上のそれを重視されたのではないかと感じている。そもそも同じような手法を用いていた従来企業との処罰の差がそれを示している。
では、ルールを越えたこのような判断は民主主義ではないのであろうか。誰がそれを決断するかという問題は残るのだが、それでも大きな流れで考えた場合にこれこそが民意であり、民主主義の一部であるのではないかと感じている。
民主主義は、それを遂行せしめるためにルールを必要とする。それが法律や様々な規則など、微に入り細に入り網羅的に存在することになるが、こうした巨大なシステムは民主主義を体現するものの民主主義そのものではない。
だから、ルールに合致していても民主主義を損なうと判断されるような存在は、法律の改正以外でもいつの間にかペナルティを受ける事態が発生しうる。もちろん、それが刑事罰により実施されることも少なくないが、直接的には刑事罰すらないような形で行われることもある。
それは、当然のことではあるが民主主義がシステムではなく思想(主義)なのだということを思い出させてくれる。資本主義は民主主義という大きな体系の上に立脚したシステムでかつ思想であり、これもまた民主主義の土台を壊すようなことがあるときには、一定の制約を受けることになる。
アメリカで論争となっていることは、実質的に民主主義を優先するか資本主義を優先するかの岐路に立たされている。経済においては資本主義の論理が優位であり、経済が成り立たなければ社会も安定しない。ただ、そこに倫理というフィルターを加えなければ、リーマンショックのような暴走を引き起こす可能性は全く低下しない。

様々な論議はあるだろうが、今生じているいろいろな問題はこうしたシステムと思想の対立と捉えられることが多いのではないだろうか。