Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

閾値

人生は様々な事象の閾値との関係で決まる。平凡と言われる人生は物事をギリギリまで追いかけない事で実現し、社会的な成功はその逆によって得られる。もちろん、思いつきがちょうどその限界値であるような偶然があれば人も羨む結果となるかもしれないが、それが稀である事は誰もが知るところであろう。

仕事や研究で限界を追い求める事とは少し観点が異なるかもしれないが、私達は社会生活を送る上でそれ以上進んでも良いかどうかを常に考えている。物事には限界があり、限界付近まで進む事には意味がある事も多いが、それを超えた瞬間にまるでブラックジャックのようにバーストしてしまう。すなわち、限界に近づくことにより得られるよりも遙かに大きなペナルティを受けるのだ。
だから限界点に近づかないと生き方も当然あるし、それを見極める事に精を出す生き方もある。日常生活において限界と対峙し続ける事は通常の精神では耐えられないものではあるが、一度(あるいは数度)限界点を超えたものにとってはハードルが下がる。
もっとも、この限界点というかボーダーラインは必ずしも1本だけではなく何重かになっていることが多いが、それは人間社会の栄智であってセイフティーネットとして編み出されている。何かを極めようとするならばこのボーダーラインを幾重か乗り越えて社会的に成立可能な限界を追い求めることになるのだろうが、一度乗り越えたラインを引き返すことはできない。このボーダーラインは社会的な常識や道徳・倫理などにより構成されており、それを乗り越えれば次の境地に立てるかも知れないが、一度破ってしまった決まりは次には過去と同じ強さの心理的障壁とはなり得ないのである。

道を究める場合のそれは、まだ社会からは肯定的に受け入れられたり尊敬を受けることも少なくないが、人生を踏み外す側のそれは基本的に不可逆的であると言う意味において非常に大きな問題となる。例えば麻薬の場合を考えればわかりやすい。最初は法律やタブーの障壁を打ち破るのは非常に困難ではあるが、それにのめり込み始めると引き返すのは容易ではない。そして、発覚後に人生をやり直そうと決心しても、一度越えてしまった障壁はハードルが大きく下がっているのである。ハードルの向こうの甘い囁きに耐えられるだけの克己心を有していれば耐えられないことはないだろうが、通常はそれの方が難しい。一人では耐えられないからこそ、グループなどを通じて努力することになる。
そして、これはいじめもまた同じことである。最初は悪ふざけ程度から始まるのは誰もが知っている。そして、いじめが子供達に間で力を鼓舞するための妙なステイタスになった時、彼らは知らず知らずのうちにボーダーラインを超えてしまっている。その逸脱が軽いうちなら反省して留まることもできるかも知れないが、踏み出し幅や回数がある量を超えてしまえば、おそらく精神内にある倫理観の障壁が大きく毀損してしまう。つまり歯止めが無くなってしまうのだ。
ボーダーラインを越えないという歯止めを教えることは親の責任であろうが、親自体がそれを越えている場合にはそのことがそのまま伝えられてしまう。「DQNの親にDQNの子供」が再生産されるのは、教育環境のどうこうもあるだろうが、この道徳や倫理による心理的な障壁が生活の中で打ち破られてしまっているからである。

このようなボーダーラインは数値的に表せるものでは無いのだが、学術的には「閾値(いき値、しきい値)」と表現される(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%84%E5%80%A4)。その限界値を超えることで、様相ががらっと変わってしまうボーダーラインを示すのだ。
法律や道徳は、本来この閾値としての役割を果たしてきた。これら閾値は、良い側においては破るべき壁であることもあるかも知れないが、悪い面では社会的生活を営む上での越えるべきでないボーダーラインでもある。
教育の世界で道徳の教えが廃れ始めて久しいが、ともすれば壁を乗り越える、個性を発揮するという壁を打ち破る方向の教育が前面に押し出されて来たのがこれまでだと思う。守るべき壁については規制という形で押しつけるものとして表現されてきた。なぜ守らなければならないのかを、詳しく教えることが為されなかったと私は思う。現に一度限界値を超えてしまったら、現実には引き返せなくなってしまうのだと言うことを私も子供時代にあまり教わった記憶がない。
「悪いことをしてはいけません。それはそれで困る人がいるからです。」は聞いても、「一度悪いことを始めると止められなくなります。」とは教えられたことがないのである。

もちろん、中途でも書いたが類い稀なる克己心により線を越えたことを帳消しにできる人もいるかも知れないが、普通に考えればその心のある人はそもそも線を踏み外したりはしない。
結局、悪い側の線を越えることについて教育は手を抜いてきたのではないかと感じる。それが過度の平等主義によるものなのか、あるいは性善説によるものなのかはわからないが、どちらかと言えば人は悪に向き合うのが下手なのかも知れないとも思う。
ただ、それでもこの閾値を意識することをもう少し考えても良いのではないかと思う。