Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

雰囲気

KY(空気読めない)とは、少し前から言われるようになった言葉ではあるが、その場の雰囲気を忖度して適切な行動が取れないことを示している。その先には、気配りや配慮のできない人間性を揶揄することや能力の不足を意味しているのだろうが、一種その場の雰囲気への迎合とも取れなくはない。こうした場の雰囲気を大切にすることは、昔から日本ではかなり重視されてきた。海外でも重視されるものではあろうが、ディベートの訓練などを見ると雰囲気に迎合すると言うよりは、雰囲気を上手く利用する方向に見ているようにも思える。橋下大阪市長などは雰囲気や空気を利用するに長けた人物だと感じるが、日本ではそれに絡められて波風を立てない方向がどちらかと言えば支配的である。

さて、上記のようにこの雰囲気に支配される存在と雰囲気を利用する存在が常にいるわけだが、新聞に代表されるようなマスコミはこれを常に利用しようと考えている。それは、雰囲気を利用することにより自らの行動の成果を格段に向上させることができるからではあるが、逆に言えばそれが裏目に出た場合には大きなしっぺ返しを喰らうことにもなる。
文壇などはそれを知っているので、下手にブームを煽るような言説からは比較的距離を置いているようにも見えるが、同時に自己の主張が広がらないことに苛立ってもいるというコンプレックスを抱えているようにもいつも思うのだが、どうなのだろうか。

先ほども触れたように大阪橋下市長は、その善し悪しは別にして雰囲気を上手く利用できる人物であるが、それはマスコミが普段から行おうとしていることと実のところ大きく変わらない。強いて言えば、マスコミは焚きつけるだけではあるが、橋下市長はそれを実行に移すという意味で成果としては大きく違う点はある。それは見方によれば決定的な違いでもあって、それ故にマスコミは橋下氏を追い落とせないできた。ただ、上記のような雰囲気を利用しているという側面で言えば同類の争いのようにも見えなくない。両雄並び立たずとは言うが、同じ手法を使う者同士が仲良くなることなどあり得ないのかも知れない。別に橋下市長を擁護する気などさらさら無いが、そう考えれば一次あった信じられないようなバッシングの理由も頷けてしまったりするものなのだが。

さて、この空気や雰囲気というものは往々にして漠然でつかみ所がないものであるが、何か特定の目的が浮かび上がった時には大きなうねりとなりやすい。近いところでは大津のいじめ自殺事件で加害者に向けて醸成された雰囲気があるだろうし、少し前では民主党による政権交代の雰囲気も内容こそ違うが実質的には同じようなものである。
時を経てみてみれば一体何だったのだろうかと感じるような感情なのだが、社会の流れの中に一時的に身を置くことはどうも居心地がよいらしい。似たようなものは反原発のデモなどでも感じるのだが、結局のところ一時的な陶酔なのではないかと思う。その陶酔に入ることを許される題目があればいいのだ。だからマスコミは、常にそれを引き寄せるような煽りを行うのだ。中立などを謳ってはいるが、仮に政治的には中立であっても(これもあり得ないが)雰囲気を誘導しているという意味で一定の意思を持っている。ただ、その結果について責任を取らないと言うだけである。
このうねりは、先ほども触れたように高揚感を伴い責任感を軽くするが故に、私としてはあまり望ましいものではないのではないかと感じてもいる。TPOとしての空気は読むに超したことはないが、それに流されると言うことは必ずしも良いとは限らないのである。

「雰囲気は罪の意識を軽くする。」