Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

努力を人は遠くから見ている

頑張れば必ず報われるという社会ではないのは残念ではあるけれども事実である。
努力は本人の頑張りではあるが、それが社会の期待するものと異なっていれば当然否定される。
あるいは否定まではされなくても評価が為されない。
そして、多くの人たちはこう嘆くのだ。
「こんなに頑張っているのに、全く報われない。」あるいは「誰も私の能力を認めない。」などと。
実際、職場の人たちから努力していることを「頑張っているね」と言われることはあっても、それ以上の何かを受け取ることはないだろう。もちろん、誰にもわかる明確な成果を出したならば別であろうが。

そもそも、実社会においては努力と成果は必ずしも直接は結びつかない。
ドライな話をすれば無駄な努力は世の中には掃いて捨てるほど存在する。
だからと言って努力が全て無駄なのかと言えばこれもまた違う。
努力には絶対に意味がある。意味のない努力は存在しない。
問題は、努力=成果ではないと言うだけのことなのだ。
努力は蓄積される。この蓄積は溢れることがなかったとしても確実に蓄え続けられる。
強いて例を挙げれば、水を蓄え続けている風船だと思っても良い。
努力すればするほど風船はふくらみ続けるが、だからと言って穴が開いて水が外に出るのがいつなのかは誰にもわからない。努力を諦めれば風船は膨らまなくなり、場合によってはしぼんでしまう。

さて、「努力が実を結ぶ」という表現もよく耳にする。
この努力が実を結ぶという状況は如何にして実現するのであろう。
それは、努力の成果が社会に受け入れられることである。
社会に受け入れられるという曖昧な言い方を改めるならば、社会における一定の地位や立場にある人・組織などに評価されると言うことでもある。
これは蓄え続けた努力が溢れ出す瞬間とも言えるだろうし、溢れるように評価した人が穴を開けたと言っても良い。

では、自分を普段から見守っている人たちからすればどう見えるか。
もちろん、努力している姿は間違いなく見ている。
見ているとも言わないだろうし、それをいちいち評価などしない。
なぜなら、彼らからすれば仮に努力や才能を見抜いていても、その専門家でもないのだからそれをアピールして回るようなことはわざわざする意味もない。
だが、それが今にも溢れそうな状態だと思えば、穴を開けてくれるような人に紹介することはあるだろう。

すなわち、努力する姿は遠巻きには必ず見られている。
ただし、直接的な助力は通常行われない。
あくまで見守っているのである。
そして、それが花咲きそうだと思えた瞬間(もちろん、そう思うタイミングは人によって異なる)になって初めて手をさしのべるのである。

努力している姿は見ていても、容易には助けないし、簡単にも評価しない。
そもそも、努力している当の本人にはそんなそぶりすら見せない。
それはなぜか?
それは、まだ十分な努力が蓄積される前に助力したからと言って成果が容易には生まれないだろうし、仮に一時的な成果があっても継続しないだろうと思うからである。そもそも、よほどのことがなければ他人に積極的には関与しない。

そして、十分に蓄えられた努力があふれ出すときには怒濤のような流れが生まれるだろう。
その時には、誰もがこれまでの努力を褒め称えるのではない。生み出した成果を賞賛するのである。

それでも誰もが思う。
「努力が報われない。」
いや、努力は必ず見守られている。
ただ、すぐに手をさしのべられるわけではない。成果を出すレベルまで努力を行えるのは当人のみなのだから。

「見守られていることを一番感じられるのは家族であろう。それを認識するだけでも苦労は少し報われる。」