Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

私達が学び続ける理由

人生は勉強の連続だというのは、真実だと思う。
しかし、学ぶことは単に知識を得ると言うだけには留まらない。
そもそも物事を学ぶという行為には二つの面がある。
まず一つが、知識を覚えることである。
世の中の様々な事象に対して基本的な知識がなければ、対応どころか何が起こっているのかさえ理解することができない。まずは基本知識の取得は最初のステップとして何より重要である。
学校での勉強は、将来的に利用するかどうかは別として、社会で使用する最低限の知識を取得するものである。
知識を知ることがなぜ重要かと言えば、先ほども述べたようにそれを知らなければ問題の構図や全容など理解もおぼつかないが故である。もちろん、その問題に対処する場合に限られるし、問題が発覚してから勉強しても間に合う可能性も当然ある。
多くの場合には、多種多様な知識を有している人はそれほど多くなく、問題に対処しなければならなくなってから勉強をするというケースが多い。大部分の人は今必要な知識は持ち合わせているが、将来的に必要になるかもしれない知識を持ち合わせているとは限らず、ましてや普通に考えて将来必要になると考えられない知識など持ち合わせるはずもない。

ところが、社会や技術が発達してきた現代社会においては、異分野の知識や技術のコラボレーションが重要になりつつある。単一分野の技術深化がある程度限界に達しはじめたからではないかと思われる。もちろん、技術には常にブレイクスルーがあり新たな進歩を再びはじめることは十分考えられる。それでも、そのブレイクスルー自体が異分野の技術間における連携や結合による可能性はかなり高い。
要するに、新たな時代を切り開くためには一つの専門分野では不足な時代になりつつあるのだ。

例えば、大学教育などは一つの分野を突き詰めるのが一種のステイタスであった。もちろん今でもその分野の本道はそれであろう。しかし、本道を突き詰めるのと同じくらい、新たな分野を切り開くことも重要である。
まず、様々な知識を得ることはその可能性を広げる大前提になるのだと思う。
これらは、なにも技術分野に限られたものではない。社会科学や経済、果ては芸術の分野までどこにおいても似たような状況は生まれている。

ただ、一つ重要なことがある。
これは、単純一に知識の収集をすれば異分野の技術が融合できるというものではないことである。
そこには、深い洞察や経験に裏付けされた閃きなど、技術分野の新境地を開くにふさわしいイベントが必要になる。もちろんそれは偶然の産物かもしれないし、狙って得たものかもしれない。
どちらにしても、そこに至るには知識だけでは不足である。
大いなる知恵の働きが必要になる。
この場合の知恵とは、異分野の技術を並列して扱えるだけの度量と、それらの接点を見いだせるだけの知見であろう。何でも行き当たりばったりに結びつけることもコンピューターの世界では行われる話であるが、それが全てではない。試行錯誤はあったとしても、それがいかに効率的に行われるかは重要なことなのだ。

さて、私達が学び続ける理由は何も最先端技術の世界だけではない。
自らの凝り固まった思考形式を打ち破るためにも非常に効果がある。
新しい知識を活用できるかどうかは、どれだけ柔軟な思考ができるかにかかっているようにも思えるが、それでも何らかの行き詰まり・停滞感を感じている者にとっては、現状を打破できるものを期待せずにはいられない。
私達が学び続ける一番の理由は現状の打破なのだ。

安定した生活は、自らの人生を脅かすものではないかもしれない。
しかし、安定が未来永劫続くと確信できる者はほとんどいないだろう。
時代が変われば、自らの生活も変わるのが一般的である。
特に、現代社会は移り変わりが激しい。
しかし、学生時代もそうであったが望まざる勉学ほど苦痛はない。
自らは変わりたくないのに、変わらざるを得ない。
それ故学ばなければならない。

だとすれば、積極的に学ぶ気持ちになる方がまだましである。
嫌々からはじめるのではない。
例えば知的好奇心の満足、あるいは実践活用。
理由など極端な話、何でもよい。
それよりはまず新しい知識に触れること。
それこそが、現状を変えるきっかけとなるのだから。

「勉強したいのか?勉強せざるを得ないのか?それが問題である。」