Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

活用と使用

 時間、情報、人脈、これらの要素は人生において非常に重要であることは言うまでもない。ただ、重要だからと言って単にこれらを保持・収集しているだけでは、自己満足の足しにはなろうがそれ以上ではない。集め広げるのではなく、如何にこれらの要素を上手く活用できるかが人生をポジティブで有意義なものとする上で重要となる。

 そのこと自体は特別なことではないし、こうした要素を上手く活用したいと大部分の人が考えているだろうが、そうは言っても活用できていると胸を張れる人もそう多くはあるまい。集める・生み出すことは比較的容易にできるが、それにより得た機会を活用できるかどうかについてはまた別次元の難しさを有している。困難さ故に、あまり意味がないと思いつつも数の上での知己を自慢し、情報を誇示し、あるいは時間の無駄遣いに勤しむ人は後を絶たない。それでも、少しばかりの自己満足をあたかも成功として感じ取ろうとして必死になるが、社会的評価されるような成功には到達できないだろう。

 敢えて書くまでもないことだが、ここで言及しているのはあくまで活用であり単なる使用ではない。活用とは如何に効果的に使用するかであり、無闇矢鱈に乱発することを意味していないのは当然である。
 私達は、学校の勉強や家庭や社会での学習により様々な知識を得ている。記号的な知識から、物事の使い方、効果的な利用法、時間の使い方、更には人との上手な接し方。もちろん完全な知識を全ての人が持っているはずもなく、知識に偏りがあったり不十分なものや誤解もあるだろうが、少なくとも社会生活を送る上で大きな支障は生じない程度の知識は普通に生活すれば得る機会を与えられている(一部にはその当たり前が得られない人が再増加しているのではないかといった問題もある)。

 しかし、こうした知識を効率的に使っているかについては人によりかなりの差が現れてくる。具体例で言えば、受験勉強や会社での業務成績などもこうした「使いこなし」の能力による差が大きい。誰でも必ず同じようにできると安易に唱えるつもりはないが、こうしたテクニックを手に入れることで望む結果を得やすいというのは間違いないだろう。
 これは、受験勉強において「予備校講師の方が学校教師よりも随分わかりやすく教えている」などと言われるような声からも確認できるが、わかり易いというのは理解や分析の手順を個人任せにせずに明確なテクニックとして教えているところも大きい。単なる知識を羅列的に暗記させるのではなく、様々なものと関連付けることで私たちは事象や知識を理解・記憶していくが、その汎用的な方法を教えているという面が強い。
 こうした方法論を受験テクニックと軽視する声があるのも知っているが、適材適所の使い方を覚えること自体は決して悪いことではない。悪いのは上手くいった方法が全てと考えて、理由ではなく方法に拘ってしまう事であろう。
 道具を道具と適切に理解し、その上で道具を最も効果的に利用できる場面を選択して利用する。それこそが活用の肝である。

 時間も情報も人脈も、そしてお金も、これらは全て更なる何かを求める上での道具であり手段である。同様に受験テクニックも、利用することでより良い学歴を手に入れる(この学歴すら別の目的の手段であるが)という道具に過ぎない。
 道具というと既製のものを利用することを想像しがちであるが、残念ながら社会においてほとんどの場合は道具は自分で調達し自分で構築する。ペンやPCの場合であっても、単に買えば良いというものではなくそれを効果的に活用してこそ意味がある。そのために、使う場所を考え使い方を考え、場合によっては使いやすいようにカスタマイズする。買って満足というものでは不十分である。
 ただ、私たちは全ての道具をカスタマイズできるほどに余裕があるわけではないのもまた事実。よって、私たちは取捨選択をしながらあまり考えずに流す部分と、深く考える部分を生活の中で使い分けている。無論、能力には個人差があり深く考えを巡らすことができる範囲が広い人もいれば狭い人もいるが、能力以上に意志や好みのウエイトが大きいように感じている。

 好きな仕事や遊びならば、時間を忘れて没頭し、思考し、集中するのは誰もが知る事柄である。繰り返しになるが、性格や能力によりその度合いや深み・広がりに差があるのは間違いない。しかし、個人差が存在するのを踏まえた上で、やはり必要な物事に関わる思いの強さが深い検討を導き出し、単なる使用を活用に引き上げていく。
 この思いの強さに影響を与えるのは、好き嫌いもあろうし、義務感もある。その上で、チャレンジするという最も重要な行為に踏み出しているというのが最大の要因とも言える。活用と言っても、私たちは自分の持つ経験や知識の範囲でしか物事など考えようもないし、動かすことはできない。
 積極的な活動をしてきた人は、そこで得た知識や経験を利用できるケースもあるだろう。しかし、世の中それほど単純ではなく大部分の場合には新しい何かを自分の力で見出し考え出さなければならない。経験や知識はそれを遠方からポートしてくれるが、カンニングのように答えそのものを教えてくれるものではない。

 だから、活用するということはトライアンドエラーを躊躇わないという行動の結果得られるものだと思う。それ故に好きだから踏み出せる、強い意志を持っているからこそチャレンジできる訳なのだ。活用の方法に絶対的な暗記テクニックのようなものはおそらく存在しない。だが、逆に言えば受験テクニックと同様に得た数多くの手法を自分自身の頭の中で再構築して新たなスタイルで適用することは可能である。
 結局のところ、活用が苦手というのはそれに踏み出す準備とチャレンジをしていない、あるいは数度のチャレンジで諦めてしまったからこそ生まれてくる言い訳でしかない。
 もちろん、誇れる人脈を得ることも一つの成果であり、豊富な知識を得ることも同様である。実はこれは社会の中でこうした能力を活用してもっと大きく踏み出せる準備を整えている状況でもある。あとは、失敗してもくじけず精進を続ける気持ち(好奇心であったり意志)を持ち続けれさえすれば良い。
 確かに、チャレンジしたからと言って必ず成功する訳ではない。むしろ失敗を繰り返すことも数少なくないだろう。ただそれこそが自らの糧になるのであって、いや糧や貴重な経験としなければならない貴重な機会を得たのだと理解していれば、その先はおそらく明るい。