Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

都議会野次問題

 時事ジャンルに入れるには少々賞味期限を越えている感じもしなくはないが、思うところを少し書いてみたい。正直、議会における野次の醜さについては私も辟易していたので、一罰百戒ではないが今回社会的な問題となったのは悪い話ではないだろう。
 他方で言えば、今回の都議会自民党議員に限らずある程度人数の多い議会では、こうした野次は日常茶飯事であり、国会もその中に含まれている。昔は新聞などでも「野次将軍」といして一部の陣笠議員をあたかも持ち上げるような捉え方をしているケースもあった(ハマコーで知られる今は亡き濱田議員などが有名)。「火事と喧嘩は江戸の華」ではないが、議論伯仲する議会においては感情論が一定の範囲で許容されてきたという歴史的経緯がある。
 今回のケースでも野次の中身が問題とされているのであって、野次そのものが完全に否定されているわけではないのが面白い。本来議会は野次などの相手の感情を逆なでする言葉の押し付けではなく、正々堂々と議論を交わし自己の意見の正当性を主張するのがあるべき姿である。野次は、その王道を茶化し紛らわせ拡散させるゲリラ戦法である。
 もちろんそれも戦略の一つとしてない訳ではないだろうが、その効果は正直言って疑わしい。むしろ野次そのものが相手の心理に与える効果よりは、自分の属する集団(あるいは政党)の価値を上げるために相手に対するネガティブな印象操作を匿名(のつもり)で行う、あるいは集団内における自己主張を目的とした(チンピラ集団における粋がりの様な)ものの感じがする。
 今回の経緯を見ていても、野次を飛ばした議員が最初は自分ではないとしらばくれ、その後追求の手が強まると観念して名乗り出た。匿名でいようという意識が満々の行動といえるだろう。本来議員は、住民の代表者として選出された存在であるのだから、少なくとも議会内では匿名でいようという行動はいただけない。

 さて野次はできる限り正当なもの(正当な野次があるのかはわからないが、ディベートが個々の議員会では難しい状況ではありかもしれない)、すなわち議論を広げ深めることができるものにおいてのみ許されるべきだと私は思う。日本(あるいは地域自治体)の政治や行政の方向性を決める舵取りの場なのだから、議論が伯仲するのは悪いことではない。
 逆にお通夜のように粛々と進行する議会というのも、本当になされなければならない議論が行われているのか心配になってしまう気もする。とは言え、現状繰り広げられている野次は議論に値しない野卑なものや無意味なものが大部分であり、これについてはこの機に大いに改善していただきたい。

 その上でではあるが、正直都議会の野次問題などどうでもよいと思っている。これほど社会問題にするレベルの内容ではない。物事には「方向性」と「程度」が存在する。方向性とはそれだけではないが「善悪」と言える場合もあろう。
 今回の野次は、「良い」or「悪い」で言えば間違いなく「悪い」。ただ、その程度が軽微か重大かで言えば私は軽微なものだと思っている。鬼の首を取ったの如く話題になるようなレベルとはとても思わない。「悪い」けど「小さな問題」というのが私の素直な反応である。
 ところが、社会で問題を取り上げたい者たちは方向性のみを振りかざし、程度の部分を無視したり誇張する。もちろん自分が不利な時には程度を大きく持ち出して方向性は無視するのであろう。

 最近のマスコミの報道や新聞の論調も、この方向性に終始している感じが強い。しかし、本当に大きな問題は「方向性」よりもむしろ「程度」にあるのではないか。嫌韓・嫌中感情が日本国内で強まっているが、これも彼らが日本を嫌う方向性の問題以上にやっていることの「程度」が大きく影響している。
 白黒を言うときには方向性が判り易いのは間違いないが、私たちが本当に評価しなければならないのはその程度が許容範囲なのかそれを越えているのかの方が重要ではないだろうか。
 もちろん、誤った「方向性」で「程度」が大きくなるのが最も大きな問題であることは間違いない。しかし社会に与える影響は、
 「正しい方向性で程度が大」・・・最良
 「正しい方向性で程度が小」、「誤った方向性で程度が小」・・・多少の差はあるが、大きな問題ではない
 「誤った方向性で程度が大」・・・最悪
である。その上でこの方向性についても、善悪や正しい・誤りというのはこれまた立場が異なれば違ったものになる。方向性自体は、レッテル張りにすら使えるのだ。

 今必要なのは、物事の程度を正しくとらえることであって、一面的な方向性を善悪という形を借りて全てのごとく言いくるめることではない。