Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

贅沢な時間

今週のお題「ちょっとしたぜいたく」

「ぜいたく(贅沢)」と言って不況のこのご時世、最近はあまり無駄をしなくなった。それは、ますます日本の景気を冷えさせることでもあるが、右に倣えの精神に富んだ典型的日本人である私にとっては、ふんだんに「贅沢」をし尽くすことなどとてもできはしない。
と言うか、実のところ懐にそれほどの余裕があるはずも無し。
でも、ふと考えてみると「贅沢」なお金の使い方というのはものを思い切って消費すること。
大きなお金を一気に使って、それに応じた満足感を味わうこととも言える。

その満足感を得られること自体は悪いと全く思わないのだが、でもそれは物欲や快感を一気に味わうもののようにも思える。もちろん贅沢な旅行ならそれなりの時間をかけて味わうものなので、刹那とも言い切れないのだが、基本的には非日常を刺激により打ち破るものなのだと思う。
それは、日常に刺激がないあるいは日常では手が届かなくて味わえないからこそ味わいたい刺激なのかもしれない。

しかし、日常がよい意味でも悪い意味でも仕事やそのほかの刺激に満ちあふれており、暇がない人にとっては贅沢と言えば新たな刺激を得るではない。
実のところ、私にとって今一番のぜいたくと言えば時間を浪費することなのだ。
普段は仕事で追いまくられている。
仕事を終えても暇を見付けては、アレをやり、コレをやりとゆっくりと思索を楽しむ時間もない。

ところが、それがあるレベルを超えそうなときに思い切って何もしない日を作る。
あるいは、何もしない時間でもいい。
ぼんやりと映画を見たり、思索にふけったり。
普段であれば無駄だと感じるような時間の使い方。
それこそが、もっとも大きな贅沢だと感じ始めている。

おもしろい旅行、おいしい食事、綺麗な服、高価な買い物。
いろいろな贅沢は世の中に満ちあふれている。
でも、贅沢とはものやサービスを消費するだけではない。
自分にとって最も大切な時間を、ある意味無為に費やす。
それこそ考えてみれば最大限の贅沢ではないだろうか。

いや、人によって価値観は違う。
だから、普段刺激のない生活を送っている人にとっては刺激こそが贅沢。
普段刺激に富んだ生活をしている人にとっては、安穏こそが贅沢なのだろう。
そして、私はそろそろ安穏が贅沢だと感じられる年代になったようである。

無為に時間を過ごす。
それは、自分としては無為ではあっても無駄ではない。
精神のバランスを維持するために必要な行為。
贅沢とは、誰にとってもそのために必要な儀式なのかもしれない。
もちろん、贅沢のレベルは人それぞれである。
そのレベル差を羨ましがる気持ちもあるだろうが、実のところそこにはあまり意味はない。
自分に応じた贅沢、それは自らの心理的な均衡を保つために必要な要素であると思う。

そして、私にとってはそれが「時間を使う」という行為であるようだ。
今晩は、息子とボーリングに行ってきた。
ボーリングは刺激であるのだが、同時にやるべき仕事は少し止めている。
私にとっては、それも一種の心理バランスの確保なのだと思う。

ちなみに、スコアは5ゲームで812だった。
息子には1ゲームあたり20のハンディを与えていたので惨敗だった。
次からはハンディ10になる。息子のボーリングスコアの進歩に喜びと悔しさを同時に味わう。
それもやはり贅沢な感覚であろう。

「贅沢とは、祭りと同じようなものだ。神聖な儀式の「静」と賑わいの「動」、どちらも祭りの重要な要素であり、そのどちらを楽しむか。」