Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

褒め方・叱り方

褒めて伸ばすというのはどこでもよく聞くフレーズである。しかし、実際には子育てでも会社における新人教育でも褒めて伸ばしている例がどれだけ多いのかと考えれば、ちょっと首を捻ってしまう。
もし本当に褒めて伸びるのであれば、会社の方針として褒めまくれと言われてもおかしくないのだが(あるいはOJTなどでそのようなシステムを導入するなど)、それほど褒めて伸ばすという話を聞いたことがない。

確かに、厳しすぎると逃げ出してしまうので、昔ほど厳しくはできなくなったとの話はよく聞く。
これも褒める話ではない。厳しさを緩めるという程度だ。
だとすれば、ちまたで話題の褒めて伸ばすのは子供の場合限定なのだろうか?
また、子供の場合であっても本当に褒めれば伸びるのか?

そう考えてみるとなかなか難しいところである。
まず子供の場合、特に幼いときにはきちんと躾をしなければすぐに遊んでしまう。
だから、勉強も褒めたからと言ってすぐにするはずもない。
その上で、テストの点が良ければ褒められてもそれなりに反応するかもしれないが、テストの点が悪ければ下手に褒めたとしてもその言葉を信じないだろうし、かえって不信感を募らせることにもなりかねない。
それに、同じ褒めるとしても結果を褒めるのではなく、努力を褒めた方が良いという報告もなされている。
結果を褒めれば、常によい結果を追い求めるようになり難しい問題には手を出さなくなる傾向が高まるというのだ。一方で努力を褒めた場合には、より多くの努力を指向する。
伸ばすために褒めるのであるから、当然と言えば当然の結果とも言えるが、多くの親や上司は努力が足りないことを叱り、結果を褒めているのが実情ではないかと思う。

要するに、褒めるに際しては単純に結果をもって行うのではなく、その過程に対しての評価を行うことが重要だと言うことになる。これは、おそらく社会人の新人教育でも同じ傾向が見られるであろう。結果を云々するのは、それなりの能力に達してからの話なのだ。
社会人の場合には、本来一定以上の能力を学生時代につけてこなければならないというのが建前である。
だから、最初からミスや成果が出ないことに対しては叱られる、あるいは怒られる。
しかも、叱る側も明確な指導の意思無しに叱れば、感情の発散たる「怒る」という行為になってしまう。
それは受け取る側からすれば理不尽なものとして感じられ、反発や萎縮を生みやすい。

もちろん、社会人としては少しでも早く役に立って貰わなければならないので、子供の指導と比べれば厳しくなるのは当然だ。ただ、早く実力をつけさせるためには単純に厳しく指導するのが近道であるかどうかはまた別である。
ここでの目的は、社会人の場合基礎的な能力を獲得することに加えて、責任感をきちんと持たせることが重要となる。言うことを聞いているだけの受け身の姿勢では働きが十分ではない。
とすると、叱るも褒めるも仕事の成果そのものではなく、あるいは過程でもなく、仕事に向き合う責任感について行うことが最も重要ではないだろうか。

翻って子供の場合も構図は同じである。自ら進んで勉強するという責任感を育てる。自ら前に進んで努力するという姿勢を評価する。そしてその結果として得られたものを含めて、最終的に褒めればよい。
叱るのは、ある程度褒めて自主性が出てきた以降が望ましい。それがない段階では、元々やる気がないのだから叱られたとしても、その理由も正確には理解していないと思われる。自らの心の中にやるべき理由が育っていなければ、叱られる理由は自己の中には見いだせない。常に他人のせいに転嫁される。

現実には部下であったり子供であったりの性格によって対応は変わる。
褒めた方が伸びる者もいれば、叱った方ががんばれる者もいる。
褒めた方が付け上がる者もいれば、叱った方が萎縮する者もいる。
それ故、単純にどちらがよいと言えるものではない。
ただ、それ以前の段階で自らがそれをする理由を自分で見付けること。そこに至るのが大前提であることは間違いない。自らの意思でやるからこそ、求めるからこそ、褒めるのも叱るのも深いところで生きてくる。
そこに至らない段階では、褒めようが叱ろうが受け取る反応は浅いものに過ぎない。

問題は押しつけた理屈では理解できないことだ。
自分が何かをする理由は、結局のところ自分で見付けるしかないのだから。

「結果ではなく過程を褒め、失敗ではなく心構えを叱るべきなのだが、人は多くの場合その反対をしてしまう。」