Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

無駄話の功罪

学生時代は、親や先生から無駄話をするなと注意されても、多くの場合依怙地になってそれを続ける。
夜の長電話は、明日また学校で会うにも関わらず二人だけの会話として重要であり、当人達にとってはそれは何より重要だ。
無駄話と言うくらいであるから内容には意味がない。
話の内容ではなく、話しているというシチュエーション、または関係性。
それが無駄話の最も重要な要素である。

関係性の問題だからこそ、当人達以外にはその重要性は理解できない。
それ故「無駄」話と定義づけられ、本来必要ないものと分類される。

しかし、無駄というレッテルに抵抗するために意地でそれを行うことには大きな意味はないことも事実である。
基本的に無駄話が可能となるのは狭い共同体における合い言葉のようなものである。
お互いがそこに属していることを確認するための儀式。
それは二人だけの関係もあれば、数人のグループの場合もある。
もちろんもっと多くの場合もあろうが、多人数での無駄話は現実には困難だ。少人数によるそれを繰り返せばいいのだが、結果的にはそれが派閥を生む。

では、そのような共同体を維持することにどれだけの意味があるのか?
人によってとらえ方は異なると思うが、感性的には意味深く、能力的には意味がない。
社会的な能力を磨くには役だっても、個人の能力を磨くにはあまり役立たない。

だから、親や先生達は無駄話を疎んじ、子供達は無駄話に夢中になる。
まず欲しいのは自分の居場所なのだ。
しかし、そうした居場所も年齢を経るごとに徐々に霧散していき、気がつけば会社という別の共同体に所属している自分に気づく。同じような共同体ではあるが、利益を上げるという大原則のある共同体であるが故、学校におけるそれとは明らかに異なる。
結果的に無駄話は愚痴に発展する。酒の席や電話がその舞台となるだろう。
もちろん愚痴の要用もあり、それについては以前触れた。
http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20110819/1313680024

愚痴も無駄話ではあるのだが、それ以外にも職場における無駄話は必ずしも忌避するものではないと私は思う。
職場によっては、一切の私語が禁止されているようなところもあれば、無駄話が飛び交っているところもあろう。
これらは仕事内容によりことなるものであり、無駄話が飛び交う法律事務所には相談には行きたくないし、しーんとした居酒屋には飲みに行きたくはない。だから、ケースバイケースだと言えるわけではあるものの、多少の無駄話がどのように公用を得るかについては次のように考えている。

無駄話とは、自分の考えをまとめる上で非常に役に立つツールである。
例えば、一人でいくら考え込んでも容易に結論に至らない問題があったとしよう。
その助力をお願いできるような上司や先輩がいれば、それは問題がない。
しかし、それを自分の力で何とかしなければならないときには、自己の考えを整理する上で無駄話は非常に役に立つ。別に相手は誰でも良い。話しかけるという行為が自らの頭の中を整理してくれるのだ。
だから、下手に反論や意見などは来ない方が良い。相づちだけで十分なのである。
一人で悩むよりも、誰かに話すことで自分なりの方針を決定できる。

これは、最初の内にしていた無駄話とは内容が異なる。
しかし、第三者から見ればおそらく同じような無駄話なのだ。

例えば、恋の話を夜の長電話でするのも実のところ似ているが、その場合は決心しようとしていない。
二人の間で、それをネタに共同体を築いている。

子供の頃は、人間関係習得の意味で関係性を築くための無駄話は意味がある。
ただし、理想を言えば特定のメンバーに偏りすぎず、様々な友人と無駄話をする方が良い。
あるいは先生や親とも無駄話をできる方が良い。
実際には好き嫌いの感情が大きく左右して、結局同じようなメンツとの無駄話に終始してしまうのがちょっと残念である。

さて、社会人になればもはや人間関係の修練の場としての無駄話の重要性は薄れる。
無駄話をしなくてもいくらでも人間関係その他で悩めるからである。
だから、愚痴によるそれが生きてくるのであろう。
どちらかと言えばややネガティブな無駄話の使い方ではあるが、精神的な傷を癒すためにはそれも否定されるものではない。
そして、ポジティブに無駄話を生かそうとすれば、新しい発想を生むためのフリートーキングなども考えられる。
ただ、それには明確な目的があるが故に無駄話と分類するべきかどうかはやや疑問もあるものの、分類自体に拘っても仕方がない。

そして、もう一つ考えられるのが先ほども触れた自らの思考を整理する上での無駄話なのだ。
理想を言えば、無駄話など使わなくても自分の頭の中で全てを整理できれば理想的ではあるのだが、残念ながら人間はそれほど完璧ではない。
少なくとも私にとっては、一人で考えるよりは相づちを打ってくれるだけで良いので誰か話を聞いてくれる相手がいてくれた方が仕事も効率的に進む。

あくまで、発想の補助として役立っている段階限定ではある。
それが、役立たない無駄話に移行しているかどうかは、本人達も気づきにくいのが少々問題ではあるのだが。。

「無駄とは、大いなる効用を持つことがある。持たざるそれと持つそれの境界線を見定められるのも能力であろう。」