Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

知恵を着る

 知識と知恵の関係については既に多くの識者が様々な場所で私よりもずっと濃密に論じている。それに比べると恥ずかしい限りではあるが、私も不十分ながら前に少し書いた(http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20110807/1312703282)。社会における知識重視の弊害は言うまでもないが、知識を無視して知恵のみを付けることもまた叶わない。両者のバランスを常に考えながら、知識を実践において用いていくことで知恵を身に付けることができる。それは誰もが知る常識でありながら、なかなか実現しない事柄でもある。
 例えば、武道では「心技体」のバランス良い習得が求められるが、それに当てはめて考えると知恵は「心」であり、知識は「技」に通じる。技を扱える心がなければ、小手先の技は低いレベルでは通用しても高いレベルでは難しくなる。

 だからと言って、ここで言う「心」が善良な「心」を意味するかと言えば必ずしもそうでもない。一般的に、「心技体」で用いる「心」は精神力に主眼を置いている。技を使うに堪えうる精神力であって必ずしも善良なる「心」ではない。ただ、武道では教育的側面やその道の発展のために善良な「心」を教えようとしているのも事実であろう。求道者が必ずしも善良ではないように、技術を磨くという側面のみで言えばそこに必要とされる「心」は非常に独善的かもしれない。
 それ故、武道の世界でも必ずしも強い人が良い「心」を持っているとは限らないが、道を追求した先に真の意味で必要とされる目指すべき「心」が見えてくるという面もあろう。ただ、「心」を先に身に付けることが必須ではなく「技」を極めた先に「心」に辿り着くのだとすれば、教育としての「心」が何を意味しているのかはなかなか難しい。
 兎にも角にも「心」は人間の成長と共に育っていくものであり、肉体や「技」の成長と比べて容易に成長しない。無理矢理取り繕っても、必要な経験を得なければガラス細工のように脆くなりがちである。知識と知恵の関係についても似たような面があるだろう。

 さて、「心技体」において扱っている「心」にはいくつもの分野と階層が存在すると考える。「技」のレベルに応じた技術運用に関する精神力が求められるとすれば、両者は寄り添いながら習得するものではあっても「技」の義務として「心」が位置付けられる。「技」の理解なしに「心」を理解することは非常に難しいからである。
 武道教育における「心」は、強い精神力と同時に善良な理解と振る舞いを内に求めている。力持つ者がすべき振る舞いを律する(義務化する)ためである。これは善良であることのみを優先してよいことだとは思わない。むしろ運用における精神力と正しく使うという認識の両者が合致することが、「心」に求められる理想として存在しているようにも見える。

 だからこそ、仮に人間性に疑問があったとしても能力の高い人はいくらでも存在する。有名な将棋棋士阪田三吉(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%94%B0%E4%B8%89%E5%90%89:実は紳士的であったという話もある)や落語家の桂春団治(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%98%A5%E5%9B%A3%E6%B2%BB)の話ではないが、全てを捨てて一つのことに打ち込む人が必ずしも社会的にいい人であるとは限らない。ただ、技術を突き詰めるという意味では社会にそれなりの影響を与えているのも事実であり、広範囲にわたる良い影響と狭い近隣に与える負の側面を比較するのはなかなか難しい。
 これは技術をどのような目的で使用するかに大きく影響を受けている。個人の技術を高めるという目的に絞れば、善なる「心」は必ずしも必須ではないどころか枷になることすらあるだろう。様々な気配りやバランスに配慮することは、技術を突き詰めると面のみで考えれば抑制側に働くことになる。

 それでも人の心は弱いものであり、身につけた技術は使ってみたくなるのが心情である。そこには自分自身が使ってみたいというだけではなく、人に見せつけたいという優越感を伴った心の動きも存在している。武道とは異なる研究開発の世界であっても、自らが生み出したものを広めたい(称賛されたい)という気持ちは多くの人が抱くものでもあろう。
 芸術などその作品や技能を人に見せることで完結する世界では、社会性よりは自らの道を完遂することが重要となることが多い(もちろん反社会的であるとされるものもあるが)。ところが、技術や方法論の世界では世の中の多くの人がその生み出された製品やシステムなどを利用することになる。そこに求められる社会性のレベルは大きく異なることとなる。

 「技」と「心」の話に戻ろう。私は、「技は刀で「心」は鞘ではないかと考えている。「技」のみを追い求めることは可能ではあるが、結果としてむき出しの刃は傷つきやすく錆びることもあろう。場合によっては意図せぬ傷を生み出す事もある。それを優しく包み込むことができ、また必要な時には覆いを取り払うことができる。剛柔兼ね合わせた変化を生み出す根源となるのが「心」ではないか。鞘のみでは大して役に立つことはできないが、その内に刃を秘め必要な時に繰り出すことができる。
 当初の目的たる知識と知恵の話にまで戻ってみる。その時、知恵を知識を扱うためのコントローラーのように考えるだけでは不足する。知恵は知識の使い場所を与える事のみならず、それを諫め覆うような存在では無いかと考える。だとすれば、それを身につけ利用する人という存在を考えた時、知恵は手に入れるものでも利用するものでもなく、衣服のように着こなすものではないかと感じるところである。