Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

社会を見る

 私がこの場を使って様々なことを題材に書き連ねているのは、何かを書きたいという内的な衝動があるためで間違いないが、同時に社会をもっと知りたいという根源的な欲求を持っていることもある。「社会を知りたい」という漠然とした言葉は目的としては非常に曖昧だと思うが、結局自らが生きている社会という環境を自分なりではあるが納得したいと思っているのかもしれない。
 かつて若かったころには社会の不合理や不条理に義憤の心を燃やしたこともあるし、それを変えるべく自分に何ができるかを考えたこともあった。もちろん今でも変だなと思うことは数知れず思いつくが、こうした不条理や不合理も含めて社会であると認識できるほどには感性が鈍感になることもできた。
 鈍感であることが良いケースもあれば悪いケースもあろうが、必要と感じるポイントについてはなるべく触覚を張り巡らせておきたいとは常々思っている。その琴線触れた情報のうちで、私が自分なりに考えてみたものがここで開陳されている文章である。

 さて、社会とは大部分の人が見て楽しむスポーツ競技とは異なる存在である。誰であってもプレイヤーとして参加できることが保証されているというか、そもそも参加していることが社会の大前提である。もちろん、この参加環境(あるいは条件)についても差があり平等とは言えないだろうが、だからと言って村八分(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%85%AB%E5%88%86)のように社会から締め出されているわけでは無い。ちなみに言えば、村八分でも二分は付き合いが残されている。
 そもそも不義理を働かなければ、関係したくなくとも関係せざるを得ないと言っても良い。むしろその煩わしさから逃げたいと考える人の方が多いかもしれない。現実には、逃げるというよりは「逃げたい」という願望を心の中に抱くことで社会を受け入れようと試みているのではないかとも思う。

 社会への参加の仕方は様々であるが、人間一人が接することができる範囲は自ずと限られている。その効果を拡大したいと願うならば、行動や声を拡大するアンプの様な仕組みを利用したくなるわけだが、こうした増幅機能こそをメディアが担っている。
 ジャーナリストとメディアが異なるのは、発信者であるか増幅機能という仕組みであるかだが、その両者の役割を混同してそれらを兼ね備えるのが当然だと無意識に考えている点が、私の理解しているマスコミの最大の弊害である。

 マスコミと同様に社会に影響の大きな発信者(往々にしてマスコミの代弁者)たる識者がメディアにはよく登場する。別に識者の考えていることが常に悪いとか間違っているとは思わないが、そこにも問題があると感じ点々は少なからず存在する。
 こうした識者には大学の研究者等が数多く含まれるが、学習と実践は多くの場合において狙いが異なるため、大きな目標として識者の意見には耳を傾けるべきことはあるが、当面の実践行動としては必ずしもそうではないことも多い。研究や学習の過程では究極(真理)を求めるが、社会においてはその時期の最適が求められる。
 短期的な最適化は近視眼的な問題を引き起こすこともあるが、理想主義よりは現実主義である。多くの場合、目指すべき最適化は理想と現実の間意を常に行き交っている。その中で最適な選択を続けることが求められる。
 逆に私が普段感じる多くの知識人の言葉への違和感は、「今、それが最適か?」という点である。究極の目的としての理想には同意できるが、だからと言って現実をすっ飛ばしたっ議論には同意できない。大きな方向性には同意できても、現状取るべき手段としては同意できないことが多いのだ。

 ここにスピーカーたるマスコミとの親和性が絡み、結局反対のための反対であったり、自己顕示のための極論の主張であったりを見るにつけウンザリとした気分に追いやられる。
 かつてのエントリで、政治家に必要とされる資質は「タイミングを見極めることだ」と書いた。多くの施策はタイミングが合えば望むような効果を発揮するが、その時期を誤ればかえって事態を悪化させることすらある。それが、大局的には正しい施策であったとしてもである。
 政治あるいは行政施策とは異なるかもしれないが、社会で発信される言葉にも長期的な視点と短中期的な視点がある。その両者とも、当該視点に立てば正しいものであるが異なる視点では問題点が明らかになることもある。そして、マスコミや識者の多くはその立場(視点)を常に使い分けて反対のための反対を主張することが多い。
 同じような認識をしている(視点を有する)人たちからは受け入れられるが、異なる視点で社会を見る人たちからは受け入れられない。それをあたかも社会がおかしいように言い放つ。

 物事はそんなに難しいことではない。社会を見る上で、私たちはできる限りフリーハンドを手に入れたい。真理を追い求めるばかりに現実を無視した主張をしたいとは思わない。逆に現実に囚われるばかりに理想に背を向けることも同様である。
 平和をめぐる議論でも、原発に対する意見でも、はたまた経済政策であっても立つべきポジションに代わりはない。結局、一つの視点を原理主義的に訴え続けるのは宗教と同じように自らの存在価値を高める行動ではないかと思うのだ。確かに、論理的整合性や科学的探究においてはそれは正しいであろう。あるいは芸術の世界においても同じかもしれない。
 ただ、多くの考え方・習慣・行動・認識・生活を持つ人たちが構成する社会においては、一事が万事と言うことはありえない。常にその時の最適を探し続けることを忘れてはならないと思う。こうした見地に立って、私は社会を見続けていきたい。