Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

高齢モラトリアム

 人生に悩むのは若者と相場は決まっていると言いたいところではあるが、実際には老いも若きも関係なく多くの人が様々な悩みに囚われている(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa10/3-3.html)。普通に考えてみれば、人生経験を積むことは同時に多くの悩みを経験してくるということでもあって、悩みの実績から得た慣れという能力により悩み故の暴発は減るようにも思う。だからと言って、聖人君子や仙人になれるわけも無く、悩みそのものが心の内から消えて無くなる訳でもない。どちらかと言えば、悩みから解放されるのではなく悩みを放置(仮置き)することに抵抗感や焦燥感を感じにくくなる、すなわち歳を重ねればスルーする力を付ける人が多いと言うのが多くの人が考える相場ではないだろうか。
 こうしたことからか、悩む若者を脳裏に想起することは容易であるが、悩む老人を想起することには少しの想像力が必要だ。最近は生活苦に悩む高齢者がドキュメンタリーなどがよく取り上げられるようになってきたが、こうした事実の存在は頭で理解できたとしても、普段の思考の中で悩んでいる高齢者のイメージがあまり出てこない。強いて思いつくものを上げれば健康に関する悩みは確かにあるが、ここでは加齢と言う逃げられない現象から来る健康に関するものは除きたい。個別で言えば、近親に苦労している高齢者がいた場合には高齢者の悩みも身近になるだろうが、一般論として社会全体が有するイメージには届いていないようにも思う。

 一方で高齢者の悩みとは直接関係ないように感じるものではあるが、世間で漏れ聞く嫁姑問題や職場でのパワハラなどは本来であれば人生経験から得たはずの余裕により回避できそうなものである。しかし現実にこうした積み重ねが生かされていない事例も数多く耳にする。
 確かに人の性格は多様であり、先ほども書いたように年齢を重ねたからと言って悩みを抱えても動じなくなる訳ではない。悩みをストレートに伝えることは無くなったとしても、それが形を変えて表出しているとすれば実質的には若者の暴走とさして変わらない。
 個別ケースを単純に「個人の性格の問題」と言い切ってしまえばそれまでだし、相対的に見ればいじめている立場は比較的明快なケースも多いかもしれないが、その根本原因にまで遡って考えれば当事者が抱く鬱屈した不満に行き着く。こうした不満を自分の中に貯めれば悩みとなり、外部に放出すればいじめやヒステリーとなることを鑑みれば、内実は同根あることは想像に難くない。問題は悩みの解消方法にあるのではないかという推論である。

 兄弟や親しい友人に相談できる環境があれば違うだろうが、一般的には年齢を重ねるほどに相談相手は少なくなっていく。物理的な状況もその通りであるが、加えて社会通念形成した高齢者のステレオタイプに若い世代だけでなく高齢者達も囚われており、容易にその箍から自分を解き放てない。そして悩みは覆い隠されてしまう。
 年を経たからと言って人間は人間であり、煩悩からも嫉妬からも容易に逃れられるものではない。それでも、社会が高齢者に与えたステレオタイプな像は、こうした現実を真っ向から否定しており高齢者自身の心理にまで影響を与えている。私たちも、身近な高齢者たちがドロドロとした想念に囚われているケースがあることも個別の問題として知っていながら、全体像としての高齢者には都合の良いイメージを当てはめることで、面倒な思考から追いやろうとしてしまっている。
 窓辺で日向ぼっこしながらうつらうつらしているような、如何にも幸せそうな老人を自らがイメージできる理想の姿と考えているのかもしれないが、思考と行動を捨てた姿が人間としてはむしろ特異な状況にあることを認識しなければならない。

 「第二の人生」という言葉が用いられる。職を変える場合を示すこともあるが、これまでの社会においては定年退職後の人生について用いられることが多かった。労働者として定年まで働き続けた後、自らの道を納得して得られる人はそれほど多いとは思えない。企業戦士として自らの生活の大部分を会社に捧げてきて、定年になったとたんに熟年離婚を言い渡される。別に笑い話でもなんでもなく、社会に存在する一つの危機である。
 熟年離婚と言う極端な例ではなくとも、これまでの仕事三昧の生活から解き放たれて、仮にお金や健康に問題がなかったとしてもその後の生き方をめぐる葛藤が始まる。実はこの葛藤を乗り越えるもっとも容易な方法は「諦める」ことにあるが、ここまで語ってきた理想像としての老人の生き方は意外とこのことを指し示しているのかもしれない。

 趣味を持てばよいと気軽に子供たちは定年した親に声をかけたりするが、趣味は作り出そうと思っても必ずしも上手く行くかはわからない。一生仕事を続けられる方が素晴らしいという意見も良く聞く。要するに、加齢を重ねた後の生きがいをどこに見出すかについて、目標を見つけられない姿が見えてくる。
 こうして見ると、若者のモラトリアムと実のところ何も変わっていない。加齢により身体機能が低下し、あるいは定年によりこれまで生活の中心であった仕事から解放される。人によっては定年を解放感をもって感じることもあろうが、本当の意味での生きがいを見つけられなければその喜びは一瞬で終わる。
 働いていた時から仕事に生きがいを見出していた人は定年後も新たな仕事を探そうと彷徨い、家族に見出していた人は子供の独立に戸惑い、趣味に見出していた人は身体能力の低下に苦悩する。

 ただ、それでも人口割合でも社会での大きな勢力である高齢者の生きがいは重要である。年金や健康保険といった保障も安心のために重要ではあるが、それ以上に高齢者たちの生きがいをもっと積極的に与えなければならないとした認識が社会に広がるべきではないかと感じている。