Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

そもそも人はなぜペットを飼うのか。

今週のお題「ペット大好き!」

そもそも、ペット大好きと言ったテーマについて私は書く資格がない。
と言うのも、もうペットなど何十年も飼っていないからである。
子供がペット代わりだと言えば叱られるかもしれないが、ペットの必要性を感じなかったというのも一つの理由だし、正直に言えば面倒くさいというのもある。

しかし、世の中では多くお人がペットを愛している。
稀少な例ではあるが、自分の子供よりもペットを愛するような例も無いわけではない。
では、人はなぜペットを飼うのかと気にしてみると、そのことについて深く考えた覚えがない自分に気がついた。
子供いる家庭を持っているから、可能な範囲(金魚でも、小鳥でも)でペットを飼うという選択もあって良いのだが、なぜだろうかうちの家では誰もそれがしたいとも言い出しもしなかった。

さてそんな話はどうでも良いのだが、世の中では寂しさを紛らわすためにペットを飼う人が少なくない。
独居老人ために生きた動物ではなくペットロボットを開発されているが、これも心のケアという意味では大きな効果を上げていると聞く。そういえば、義理の祖父は田舎の一軒家で猫たちと暮らしていた。

基本的に人間は社会的動物である。だから、よほどの変わり者であるかあるいは精神力の強いものでなければずっと一人で生きていくことは叶わない。それ故に、コミュニティを構成し、家族を作り、生きていく。
生きる糧を稼ぐためと同じくらい、人と接することが必要なのだ。
しかし、それは個人の努力でカバーできない場合もある。
家族などの生活を共にする者たちとは、バリアのあまりない関係が容易に構築される。というか、家族にまでバリアなど張っていればしんどくて堪らない。そりゃ、個人的な隠し事のいくらかは当然あるだろうが、生活共同体である以上必ず向き合わなければならない。
それ故に、家族が鬱陶しくなることもある。人はそんなに上手く接触のオンオフを切り替えられないのだ。

学校や職場ではさらに厳しい。お互いに腹を割った関係を作りたくても、そこまで至れることはそう多くない。
少なくとも強制的に生活を共にする家族ほど、深く付き合う必然性がないのだ。
だから、学校や職場では双方が求めない限りそれは成立しない。
もちろん家庭内でも夫婦間が醒めたり、子供が独立心を抱き始めると学校や職場に近い状態に陥る。
でも、生活している限り接触そのものを避けることはできない。
喧嘩してでも関係性はあると言える。

ところが、一人暮らしを始めれば一気に誰もいないことの寂しさは増える。
外向的な人はそれでも友人を多く作って時間を費やせるかもしれない。
しかし、一人の時間に疲れを感じ始めたときにペットは大きな効果を発揮する。
別に会話を交わすわけではない。
彼らが役立つ何かをするわけでもない。
それでも、自らに空いた心の穴を少し埋めてくれる。
甲斐甲斐しく世話をすればするほど、自らの心にその存在が深く浸透する。
元々家族などの関係性が強かった人ほど、誰かと強く触れていなければ耐えられない。
だから、ペットが必要になるのだ。

ペットは家族だと言う人は多い。
ペットは、自らの心に空いたかつての家族の存在を埋めるものなのだ。
あるいは、お互いに軽く空いた家族間をつなぎ止める、より強力に接着する役割を果たす場合もある。
それは、当初こそ穴埋めのつもりに飼い始めたものではないだろうが、結果的には共依存関係を築く。

すなわち、人はその大小はあるものの誰かと共依存関係を図りながら生きている。
その共依存を失うことにより空いた心の穴を埋める代償行為なのだと思う。
あるいは、穴こそ空かなくても共依存の不足を感じていればペットが仲を取り持つであろう。

だから、十分な共依存関係のある家族(当然喧嘩しようが関係なく)や、もともと依存を必要としない人にはあまり必要とはならない。あるいは、ペットでは埋めきれないほどの穴を心に開けた人も同じだろう。
「ペット大好き」と言うことは、本来ペット以外で埋めても良いそれが成し得ぬための次善策なんだと感じる。
もちろん、満たされた(様に見える)家庭でもペットはいるだろう。
しかし、人間関係を扱うだけで一杯の場合にペットを飼う余裕はない(家畜はまた別)。
だとすれば、幸せに見えても家族だけの人間関係では不足だからこそ(そういう無意識の何かがあるからこそ)ペットが飼われるのだと思うのだ。

もちろん、ペットを飼っているのは不幸せの結果であるとは言わない。
ペットを加えることでより満足するということである。
ものの充足はお金さえあれば比較的容易であるが、心の充足はそうはいかない。
心の充足とは、本来その人が有する他人に分け与えられる心のキャパシティーを、どれだけ埋められるかと言うことで決まる。その埋める相手として一義的には人間が与えられるが、それはペットによっても代替できる。
そのキャパシティーの広い人は家族に加えてペットを飼えるし、それが狭い人は人と付き合うのが辛くてペットにより代償する。そして、心に埋めていたものを失ってしまった人はよりそれを強く渇望する。

「もともと、ペットは家畜としては役に立たないものを愛でるところから始まったのだろうか?」