Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

本当の弱者は声を上げない

社会的弱者という分類は、メディアの様々な場面で用いられる。
特に、障碍を持つ人々に用いられることが多いが、それ以外にも経済的弱者にも用いられるケースが増えてきた。
それは、社会の不合理を告発する内容とし用いられるのが主であるが、ややもすれば弱者保護と健常者の権利は対立するようにも見える。
メディアは、常に新たな弱者を発掘し強者を告発する。
それは基本的には社会のリバランスにおいて重要な行動であることは間違いない。

しかし、社会的弱者とはいえどもその数が多くて団体まで有するようになれば、個々としては弱者であっても全体としては強大な圧力団体と化す。実を言えば、弱者保護を叫んできたマスコミは強くなりすぎたこうした圧力団体には及び腰である。
こうしたマスコミの姿勢には、社会的弱者保護は絶対的正義であるという考え方が貫かれている。
弱者保護を否定するつもりはさらさら無いが、それは社会の余裕なければ導けないものでもある。
要するに、社会において一部の成功者のみ突出しないようにバランスを取るための方便でもあるのだ。

いや、個別の弱者を保護することは別に社会に余裕が無くても当然のことだ。
しかし、個々の弱者を保護するのと社会が弱者群を保護しようというのではかなり異なる。
要するに、現在の弱者保護は個別保護ではなく、社会システムとして保護を義務化することにある。
そして、その義務化については社会としての余裕がなければ成立しないと思っている。

マスコミは社会的弱者を取り上げると同時に、不公正に持ちすぎた者も追求する。要するに利権に群がる者たちである。生まれつき、あるいは何らかのトラブルにより弱者となったを救済し、不当に利益を得るものを断罪する。この姿勢は基本的には社会の不均衡を抑制するという観点において正しい。
ただ、この時カテゴライズされた弱者、既得権益者などの分類が、長期にわたって固定化させることは一方で弊害となる。

しかし、弱者保護とは本来弱者を保護し続けることではなく、弱者を一般の人々と対等にすることが望ましい姿である。対等に扱うために、ユニバーサルデザインという概念が存在する。
かつてはバリアフリーという概念で知られてきた。バリアフリーは特定の障壁を取り除くという意味であったが、特定の対応ではなくさらに進んだ概念として誰でもが使いやすいという概念(=ユニバーサルデザイン)が用いられるようになった。
その概念自体は決して悪い考えではない。特に、特定の弱者を救うのではなく、全ての人が一定のレベルで平等になるようにするのである。ある意味の機会均等とも言える。
問題は、そこに盛り込まれる機会均等はすでに社会が知っている弱者のみであるということだろう。

要するに、社会が知る弱者とは既に知られている弱者に限られる。
ところが現実には、社会が変化するごとに弱者が生産されていく。
その変化の中で、社会が気がつかない弱者こそが現状におけるもっとも救済すべき弱者なのだろう。
こうした弱者は、数が少ない。数が少ない故に社会に認知されにくい。

多く存在する弱者は、社会が知りやすいからこそ救済されやすい(それが十分かどうかは別の問題として存在するが)。しかし、情報化の進んだ現代においておそらく本当の弱者は、情報の波に隠れてしまうような母数の少ない人々の中に存在する。
たとえは悪いのだが、同じ弱点を抱える弱者集団は数が多いほど釈迦からのサポートを受けられる。
逆に言えば、少数の珍しい弱者が数多くの分野で存在してもこちらは認知されない。
まるで大企業の意見は社会制度に取り入れられるが、世の中の大部分を占める中小企業はその存在が個別的でかつ、それそれが小さいが故に無視されてしまうのと同じ。
それぞれのケースが異なるからこそ、弱者として類型化できず放置される。

現代社会における本当の弱者とは、おそらく小さいが故に救いきれない存在。
制度でカバーしようとするから、制度の大きな網にはかからない存在なんだろう。
すなわち、弱者とは忘れ去られているからこそ弱者なのである。
社会的に認知されている弱者は数が多いからこそ認知され、数が多いからこそ徐々にではあるが発言力が強まっていく。そして、弱者というレッテルを有する強者になる。
世の中には、弱者を売り物にする圧力団体がどれだけ多いのか。
そして、そこにぶら下がる団体がどれだけ多いのか。
弱者の代弁者〜弱者を利用して自らの権威を上げる(マスコミ、市民団体)存在のことである。
一面で反論できない事実があるが故に、彼らは強い。
もちろん弱者は保護されるべきではあるが、彼らをサポートする人たちに権威や保護は必要ない。
彼らは、言い方は悪くても弱者を利用しているのだ。

気がついたら、恵まれない普通の人の方が弱者になっていた。
さて、それは機会平等の社会なのだろうか?

「忌避すべきは、弱者そのものではなく弱者を利用する人たち。それは公務員の周辺で政府マネーにぶら下がる存在と変わらない。」