Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

正義の必要性と怖さ

正義は勝つ。。。とヒーロー漫画ならそうなるわけなんだろうが、現実は正義が勝ったからと言って必ずしも世界が良くなるとは限らない。
一方で、心情としてはそこまで言ってしまえば身も蓋もない。

世の中で、多くの人が社会にはびこる不条理に心を痛め、十分な正義がないことを嘆いている。その結果、養女殺しの犯人にはより多くの罪を課すことを望み、カンニング犯にはそれが不当すぎると叫ぶ。
まあ、そう言う私自身その一部に存在する。

では、私たちがそう判断する根拠は何なのだろうかと問われれば、おそらく「常識」と答えるだろう。あるいは民意なのだろうか。まだ、そのように答える人は良い。常識も民意も時代や状況により変わるものだから、状況が異なれば判断は変わるのだ。
今が戦時中で、食うものにも困る北朝鮮のような飢餓状態だったときに、私たちは現状と同じ判断を下すだろうか?

そんな極論をと言われるかもしれない。まあ、思考実験として考えてみるのも良いではないか。

私は思う。状況や環境が変われば価値基準や判断は変わる。
人間とはそう言うものだ。
そこで、絶対的真理を追究するのは科学と宗教しかない。
人々の生活、社会、そういうものは変化するのだ。

さて、常識や民意という言葉なら個人的にはまだいいと思うのだが、正義という言葉を用いるとすれば私はそれを危ういものだと考える。正義とは、相対的なものであると個人的には思っているが、その言葉自体が持つ意味は絶対的である。

正義は、建前上反論のできない論理で組み立てられている。だから、頭ごなしには否定できない。しかし、正義とはある特定の考え方に従った正義しか存在しない。
絶対的な正義など存在し得ない。
だから、正義に正当性など存在しないと個人的には思う。
それは、その正義を導き出した考えの中では絶対であるが、それ以外の考えからすれば絶対的ではもちろんなく、通常は正義ですらない。

なぜ、私がこんなことを書いているかと言えば、
それはおそらくこれから世界中で「正義」を主張し合う時代が来ることになるかもしれないと考えているからである。
資本主義の正義は、共産主義における正義ではない。もちろん、逆もしかり。
絶対を追求する宗教であっても、イスラム教の正義はキリスト教の正義ではあるまい。

さて、世界的な問題は別にしても、日本社会における様々な場所でも似たような議論が巻き起こる兆しがある。
例えば、私個人も最低だと思う民主党政権ではあるが、それでも彼らが絶対悪な訳ではない。
そして、私も今の日本では拙速すぎると考える外国人参政権も、これまたそれが悪ではあり得ない。
あくまで、「現状では」いいと判断できるのかどうかと言うことでしかない。

個人的にはさんざん民主党政権のことを腐しているので、今更何を言うかといった感じではあるが、それでも思う。全否定は決していい話ではない。
それは、政党もそうだし政策もそうである。

もちろん、一対一の交渉事のテクニックとして最初に全否定というのはあるだろうが、それは政治の世界でやってもらえればいい。全否定でなくても、正義(言葉上は正義などとは言わないだろうが)の押しつけをするのも考えようである。
それが正しい、間違っていると考えるのは、あくまで一定のポリシーがあっての話である。ポリシーが違う人間にそれを押しつけてもおそらく無意味であろうし、説得を強要するのは見合いを進めるおばちゃんよりたちが悪い。

建設的な議論をすること自体を否定するつもりはないが、実際の態度にそういう面が見え隠れするのが、社会の端々で見られる気がするのが個人的には気がかりだ。

世界中が今後、アメリカの正義や中国の正義を持ち出してくるであろう。
崩れた経済の再建のために行う、世界的な生存競争である。
それは、正義の名を借りたエゴイズムの展覧会だ。

できることならそう言う世界は見たくないし、日本社会もそう言う方向には流れてほしくない。
なんとなく、そんな感じを思ったので書いてみた。


ただ、一つ大切なことがある。
それは、正義はやはり必要なのだ。
自分なりの正義というものがなければ、私たちは何も自信を持ってできなくなってしまう。
問題は、その正義は自分の正義であって他人の正義ではないと言うことだ。それを知った上で用いる正義には意味があるだろう。

「世の中には完全な中立が存在しないのと同じだけ、完全な正義は存在しない。」