Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

否定から入る人

 社会に出れば本当に多種多様な性格や考え方の人たちと出会う。大金持ちで余裕があるとか作家や芸術家で成功して家に引き籠らない限り、私たちは収入を得るためにどこかで誰かと会い仕事をしなければならない。接客業のように不特定多数と会うケースもあれば、社内の人間との頻繁な打ち合わせを行う人もいる。そして、多くの人と会う中には「この人と一緒に働きたくない」と思わせる人もいる。高に専門性と能力を持っていながらも、他者から敬遠される人である。パターンとしてはいろいろとあるだろう。他者を見下すような人や、責任を負わない人、面倒な仕事を人に押し付ける人、飲んで暴れて迷惑をかける人、セクハラ大好き人間、考え出せばいくらでも思いつく。許せる迷惑と許せない迷惑の境界は曖昧だが、「#イケメンに限る」だけではないボーダーラインがありそうだ。

 そんな中、私が注目しているのは「否定から入る人」。もちろん、他者を無条件に肯定すれば良いというつもりはない。そんな付和雷同型、あるいは太鼓持ちのような人を私は尊敬しないし、できればあまり近づきたくない。仕事でも勉強でも、間違った行動や考えを行っている人に対して、特に上司や教師はそれを注意し、修正を促すことが求められるし、時には同僚であっても同じ。だが、同じ注意するにしても妥当なコミュニケーションの取り方は存在する。その個人が取るスタンスの一つとして、「否定から入る人」が一定数存在している。

 

 この「否定から入る人」。論理的には、あるいは筋としては正しいケースが少なくない(その論理自体が不十分なこともある)。ところが、本来は正しいことを言っているにも関わらず嫌われがちになる。だから、本人は自分が間違っているとは決して思っていない。そういえば、立場が上の人から強く否定された人は、その衝撃により意気消沈する、あるいは強い反発をするケースをよく見る。その後のコミュニケーションで誤解により生じたわだかまりを解消する、ショック療法的な方法論を取る人もいるが、私が知る限り「否定から入る人」は事後のフォローをあまりしないように見える。

 要するに、自分の考え方は正しいのだからそれに従うべきだ。という強い信念のもとに行動している。信念の正当性を自分の行動で証明できる人はまだいい。例えば、会社の方針に従わないが、自分の信念に従い行動して最終的に結果を残すケース。テレビドラマや小説などによくあるタイプの物語。痛快であるし、自分の信念を貫く姿は格好良く、その行動や態度は尊敬に値することもある。ただ、その物語に登場するヒーローたちは他者(あるいは弱者)を辱めない。自分の考えを披露し他者を説得しようとし、力で押さえ込もうとする的に抵抗はするが、他者を「否定し」、力で従わせようとはしないのである。

 

 社会において、こうした状況を見るにつけ思うのだが、これはマウンティング行動の一種ではないかと。自分の優位さ、正当性を示すための示威的行動という訳だ。本人にはおそらくその自覚はない。正しい事を指導しているつもりなのは、多くの会話からもなんとなく想像がつく。周囲で見ている誰もがそれを肯定していなくても。ただ、第三者から眺めていると、本人の視野の狭さが気になってくる。局所においては正しいかもしれないが、全体で見た時には正しいとは言い切れない。さらに、他者に対して自分の正しさを理により説得できていない。

 むしろ、自分の意見に賛同する人が少ないことで、逆に自分の正しさを証明しようとより一層部下の行動を否定したりもする。また、自分が一生懸命努力していることを会話の中でアピールしたりもする。同意を取ろうという感じであろうか。絶対的な命令が必要な軍隊ならいざ知らず、現代の社会においてそれが通用する場所はそれほど多くはない。むしろ、パワハラとして訴えられる可能性が低くない。

 

 こうした人たちも、全ての行動が否定されるものでないことも、多くの人は知っているだろう。大部分の場面ではおおむね問題なく行動する。ただ、他者を否定する行動が無自覚に起こされる自分の存在感をアピールするための動きであると、その匂いが通常の行動においても嗅ぎ取れることは多い。おそらくではあるが、自己承認欲求が非常に高い人たちなのだろうと思う。私も承認されたいという欲求は間違ないなく持っているが、それは他者と自分を直接比較して得ようとは思わない。承認は、自分が行ってきた結果について代謝が下すものであるのだから。

 承認欲求に飢えている人は少なからず存在する。子どものころは先生や親から褒められることは素に嬉しかった。だが、相対的な評価で褒められるのではなく、絶対的な評価を求めるようになったのはいつからだろうか。私たちの承認欲求は一つではなく様々な要素により複雑に構成される。仕事における評価、人間性における評価、優しさにおける評価、家庭における評価、区分しようと思えば無数にあるが、その大部分は相対的な価値判断で評価される。「隣の旦那さんよりも・・」、「同期の誰々よりも・・」といった具合だ。受験戦争も出世レースもマクロでは絶対的な戦いだが、ミクロにおいては相対的である。

 そして、その相対評価に自分自身の評価の軸を置いてしまった瞬間、私たちは自己顕示欲に囚われ誰かを貶めようとしてしまう。特に、それが可能な相手(部下など)は格好の標的なのだ。

 

 議論において、否定から入ることもある。それはディベートのテクニックとしてもあるだろうし、明らかな相手の間違いをしてくするものであることもあると思う。だが、日々の生活においてそうならないように、常に注意しておきたいと思う。