Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

大学教育のあり方

「若者の高学歴化、就職にはつながらず」労働経済白書
2011年版 教育内容の再検討訴え
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819481E2E5E2E1858DE2EAE2E5E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;at=DGXZZO0195581008122009000000

現状、日本の大学進学率は2009年段階で50.2%というレベルである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%AD%A6%E7%8E%87

この数字の推移を見ると、一貫して上昇しているのがわかる。
http://www.garbagenews.net/archives/1640997.html

これは、子供の人口が増えないのに大学の定員が増加したことが最も大きな理由だと思うが、現状でも実質大学定員は希望者を上回っていると言われることもあり、大学のランクさえ気にしなければどこかの大学には入学できるという状況でもある。

だから、単純な「高学歴=努力して高いレベルの学習を受けた」という構図は必ずしも成立しない。
企業側からすれば、有能でやる気のある高卒生と無能でやる気のない大卒生を比較すれば、通常選択結果は決まっている。

大学全体を見れば、白書が言及しているような部分はあるだろうが、逆にコアな大学の就職率が著しく下がったという傾向があるのかどうかは明確には見て取れない。もちろん、不況の影響で大企業の募集が少なくなり、その結果就職企業の種類が変わると言うことはあるが、これが高学歴が就職に有利でなくなったと捉えるのもおかしい気がする。

すなわち、大学進学者が増えているという事実がある以上、全体としての大学生の就職率は低下してもなんら不思議なことではないということだろう。それは、底辺の大学が実質的に大学らしい教育を出来ていないと言うことにもつながるのかもしれない。
仮に、大学の定員が増えていても大学のレベルが総じて高く、そこに在籍する学生が相応ののスキルを身につけているのであれば、このような現象は生じないだろう。


なぜ、このようなことになっているのか?
それは大学数が過度に増えすぎていることも一因であろうが、同時に学生を辞めさせない大学の姿勢にもあるのではないかと思う。

現実、日本の大学は「入学は難しくても卒業は容易である」と言われて久しい。
もちろん、当の学生達は課題に追われて大変。。。と感じているのかもしれないが、現実には学生達の学力のレベル低下も著しい状況が見られるようだ。

以下に示すのは、あくまで知り合いのある国立大学法人の教授の言葉なので統計データなどに依ったものではないのだが、このような旨の話を聞いた。

「ここ10年ほどの学生の学力低下は本当に著しい。大学の基礎的な講義についてくることさえ出来ない。」

しかし、経営上の問題もあってかどうかわからないが、易々と留年や退学という手段が執りにくい状況もあるようだ。ケースによっては親が子供の成績の悪さを大学の講義のせいにして怒鳴り込んでくることもあるとか。
その対処には大学も苦慮しており、その対策会議で貴重な時間の多くが潰されてしまうケースまであるようだ。
もちろん、大学の先生の教える力が全ての人において十分とは思わない。逆に教育者としては下手な人が多いかもしれない。でも、大学とは本来そういうところでは?とも感じるのだが。
そんな中で自らつかみ取っていく。そういう場所というのは理想主義的すぎるであろうか?

そんな話を聞くと、「大学とは自ら学ぶ場ではなく、高校の延長のような状況にあるのだな。」と感じずにはいられない。
高校の延長=現状では実質的な義務教育。与えられた課題を上手くこなすという教育課程とも言える。
そのシステムで生産される大学卒業生は、一般社会で有能になりえるのだろうか?


別に大学が理想郷である必要はないが、大学の価値を高める方策がもっと必要だと感じざるを得ない。それは、有名な講師や研究者を呼ぶと言うことだけでなく、それ以外の部分で。

単位に不可を出すのは、国立大学法人よりも私立大学の方が容易であるという話を別の先生から聞いたこともある。これも大学によってかなり異なるのだろうが、実際のところどうなのだろうか?

今の大学を見ていると、研究と実践教育のウエイトを明確に認識していない気がする。
大学の先生は、大きな意識では自らを研究者だと理解している。その上で、それに付随する形で教育に携わっている。。。そんなイメージを常々感じる。・・・あくまで私の感想であり、これも先生によって様々であろう。

そして、教育自体は説明主体の講義がほぼ中心。
もちろん、教育時間が不足しているというのも大きな原因なのだが、学生が自主的に討論するような形での講義が行われているところは非常に少ないと感じる。
ディベートとまでは言わないが、自らの考えを論理的に説明する能力はできることなら大学でしっかり養っていただきたいと思う。そして、それはレポートという紙媒体だけでは十分ではない。

あくまで私の個人的な感想なのだが、大学教育は純粋な研究分野としての研究者を育てる部門と、社会の一員として活躍できる学生を育てる教育部門に、何らかの形で分けると言うことは出来ないだろうか?
もちろん、それを別の学部にまで分ける必要はなく、そういう枠を取るというレベルでも良いし、入学後も努力により変更できても良い。

研究職崩れ(は言い過ぎですが)や、腰掛け大学生が単純に輩出されてしまうというシステムは、少し見直した方がいいのではないかと思う。

個人的には、大学の研究者は一度は最低3〜5年は大学外の社会に出るべきだと思うので、その辺のシステム変更とからめて考えられればいいのではないかと思う。

変革が必要な時期に来ているのかもしれない。

「ただ重要なのは大学は自ら学ぶところ。その当たり前の認識が社会にもっと広がらなければならない。」