Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

経験に学ぶのは本当に愚者か

オットー・フォン・ビスマルクの言葉で「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というものがある。

wikiによれば直訳では、
・愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。
・Nur ein Idiot glaubt,aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.
Ich ziehe es vor,aus den Erfahrungen anderer zu lernen,um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.
とされている。

経験とは個人的判断であり、あくまで一事例の結果に過ぎないのだから、より多くの事象の集合体である歴史に学ぶ方が当然有利であることは間違いない。
そのことについては非常によくわかる。
では、経験は役に立たないのか?と問われれば、「経験は役に立つ」という人がほとんどであることもおそらく間違いないだろう。

歴史とは何かと言えば、膨大な知識である。多くの知識を有していれば、思い込みによる誤った選択をすることは当然減るであろう。しかし、知識が単なる知識である限りそれを使いこなせるとは限らない。

だから、単純に経験よりも歴史に重きを置けばよいと言うものでもない。両者とも重要であり、それを上手く融合させることに意味がある。
知識である歴史を参考にしながら、知恵である経験をそこにミックスさせて最も良い手段を選択すればいいのだ。
それ故、愚者は経験のみ学び、賢者は歴史と経験を融合させる。。。という方が本来は正しいのだと思う。


と、ここまでは非常に単純な話であり誰でもその程度のことには思いを巡らせるだろう。にも関わらず、この言葉が長い時間を生きてきた理由は何であろうかと考えると、少し思い当たることがある。

それは、経験には「感情」が含まれることである。データ化された歴史からは基本的に感情は排除されている。経験を歴史と融合させることが出来るレベルにまで相対化させることが出来たならば、悩むことなど無い。しかし、多くの場合には経験は感情によってデフォルメされているのだ。だから、感情に重きを置くことは判断を誤らせる可能性が高まってしまうのだと思う。

もちろん感情論を全く否定するつもりはない。実際、歴史の中にも感情が含まれている。それは赤穂浪士を美談として伝えるなど、データベース以外での歴史的記述によく見られる。
ただ、残念ながら私達が使いたい歴史にはその感情は必要ない。いや、人々がどのような感情に支配されやすかったかという、データとしての感情は重要ではある。しかし、下手な感情移入は冷静な判断を狂わせることになりかねない。

愚者が学ぶのは感情にまかせた主観的経験であり、デフォルメされた経験なのだ。確かに、そうであればそれは将来の指針にするべきものではない。より客観的なデータが必要なのである。

私達は生きている限り通常完全に感情を廃することは出来ない。だからこそ重大な判断においてはなるべくそれを廃した客観的な情報を基に考えるべきであり、それを学ぶに適切なものは歴史だと言うことになる。
そう考えれば、こういう言葉であっても良いだろう。

「愚者こそは歴史に学ぶべきであり、賢者は加えて経験に学ぶことも出来る。」