Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

メディア批判と期待

 最近は本当に忙しくなってしまい、ほとんどかけない状態が継続しているが、時間を見つけて少しずつでも書いていきたい。

 さて、近年メディア批判が非常に盛んになっている。私自身、朝日新聞をはじめとするメディアに対する批判的なことは何度も書いてきた。だが、この批判には二つの意味は含まれていると思う。一つには第4の権力とも言われるメディアの有する影響力を前提とした批判。そしてもう一つは、そうは言いながらもメディアから離れられていないことを前提とした批判。多くの場合には前者を根拠とした批判であり、後者についてはメディアが影響力を失えば自然と離れていくといったイメージもあるかもしれない。
 だが、メディアが政争や事件・事故をネタとして消費しているのと同じように、ネットでのメディア批判も基本的に同じ構図ではないかと私は思う。楽に批判できるから、そして批判対象が健在だからこそ出来ている批判なのではないかと言うことだ。

 もちろん、社会の公器を自称するメディアと便所の落書きとも揶揄されたネットの言説を同列に並べることはおかしいかも知れない。報道により利益を得ているものと、憂さ晴らしのために書いているといった内容の差もあろう。だが、かつてフジテレビにて有名なった言葉である「嫌なら見なければよい」と同じようなことが繰り広げられているようにも思うのだ。批判するために見る。近年は「嫌韓」を通り越して「笑韓」や「呆韓」などといった言葉も通り過ぎて行った韓国に対する過激な意見であるが、これもまた消費されるためにある騒動のように見えるのだ。
 実際、韓国メディアの言説が正しいとは思わないし、国際的に繰り広げられるデマゴーグや嘘のレッテル貼りにはきちんと対応しなければならないと思う。それに対して、政府(特に外務省)は効果的ではなかったとも思う。だからこそ、国民の認識が広がったことにより最近国も動き出している面があることは事実だと思う。だが、そうした国と国の関係性については別に一人一人の国民が憤慨して対応しなければならない訳ではない。

 結局は、これらは情報の消費なのだと思う。私たちは、消費できる情報が提供されることを常にどこかに期待し続けているのだ。もちろん、心地よい情報を期待しているという面もある。だが、同時にそれ以上に気楽に批判できる対象を探している。私たちはいつも安定と刺激を追いかけているのだ。
 井戸端の会話のように、同意や共感と、批判することによる刺激を探している。それは、職場においても学校においても常に行われ、探し続けられている。そして、自分(たち)の中においては正義の存在として自分を位置づけるのだ。安定として人の同意(共感)を得て自己存在肯定をし、刺激として何か(誰か)を批判して自分の特殊な立ち位置を自認するのだ。

 こうした行為の全てが悪いとは思わない。全ての事は程度が重要である。軽い愚痴も嫌味も、時に自分自身の平静を保つためには必要であり、そのために小さな社会(コミュニティ)は存在するのだ。それが度を越して社会に悪影響を与えなければ許容されるべきだと私は思う。そして、その範囲は常識として時代とともに少しずつ変わっていく。
 メディアは、既にその大部分を情報を消費されるための存在に変わっている。それはメディアが単純な情報発信ではなく、すでに自己の主張含めた発信者であることを意味していると言っても良い。公平中立などないからこそ、単純情報ではないからこそそうした社会リアクションが生じるのだ。だが、こんなことが言えるのは社会が一定の安定と成功を得たからであって喜ぶべきことなのだろう。
 その上で、メディアは今後もほんの少しの価値ある情報発信者として、同時に大いなる社会的な娯楽情報発信者として期待され続けるのではないか。表向きは批判と言う声に包まれながら。だが、その時の収益モデルがどうなるかは何とも言えないが。