Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

素直に尊敬できること

 尊敬という言葉は今の教育現場や育児の場面でどのように取り扱われているのであろうか。私は、社会を上手く回す一つの重要な概念がこの「尊敬」にあると考えている。尊敬というと仰々しい感じで受け取る人もいるかもしれないが、素直に相手を認めることがその基本にあるのではないだろうか。
 認めると言葉はなかなかに曖昧なものであり、一体何を認めているのかにより意味する内容が大きく異なる。単純に存在を認めているのか、行為や言説の可否を認めているのか、あるいは能力や才能を認めているのか、そしてその人の価値を認めているのか。

 私が「尊敬」という概念に触れている一番の理由は、人の価値を求めるという行為が「尊敬」と比較的近しい関係にあるのではないかと思うからである。もちろん、全く同じだというつもりはない。親は子の価値を認めるがそれが「尊敬」であることはないだろう。

 ところで社会全体を見回してみる時、この「尊敬」の敷居が高くなっているのではないかと感じたりもする。尊敬の価値を高めるというのは、尊敬できる人の数を限定することでもあり、尊敬を乱用しないということでもあろう。価値を高めても、社会には尊敬に値する人は少なからず存在するであろうが、他方で容易に人を認めないと身構えている感じも嗅ぎ取れる。

 ふと考えると、容易に相手を尊敬できない関係性が広がっているのは、ひょっとしてひどく荒涼たる社会ではないだろうか。儒教的な目上の人を敬うということではなく、年下であろうが凄いと思える、あるいは良いなと思える点があればそれはすなわち尊敬に値する。
 小さな尊敬と言っても良いが、人の全体ではなく部分を認めることができるかということかもしれない。全人格のみを評価しようとすれば、なかなか尊敬に値する人は見いだせない。しかし、人には悪い面もあれば良い面もある。良い面は素直に尊敬してもいいのではないかと思うのだ。

 それは概念として「尊敬」には値しないと言われるかもしれない。別に私は「尊敬」という言葉を用いることに拘っているわけでは無い。だから、どんな言葉でも良い。多くの場合、「良いところもあるけど尊敬できない」という評価が下されるケースは、悪い面により実害(あるいは間接的な被害、心理的な嫌悪感等)を受けていることから出た感情的な反発だと考える。

 人の良い部分と悪い部分を分離して、良い部分は評価して悪い部分は嫌悪するという仕訳を行うのは、一個の人格として認識している状態では容易ではないかもしれない。人が人を嫌ってしまえば、多くの場合たかだか数個の許せない点(もちろん感情的に許せないほど大きいのだろうが)をもってその他の部分を見ることを拒否してしまっている。要するに良い部分があっても感情面ではそこをほとんど評価しなくなってしまう。

 これは嫌うという感情的反応を補強するために行う無意識的な行動なのではないだろうか。「○○だから嫌い。」という初期的な反応はあるだろうが、その後は「嫌いだから○○」に感情の動きが移行する。理性的に振る舞えばは拒絶感を理性で封じ込むことができるかもしれないが、実行できる人はそれほど多くはいまい。
 また、子供のころのように「好きでいてはいけない」という思い込みが感情的な「嫌い」の行動に発展することもあるが、これも自己の感情に振り回される葛藤を落ち着かせるための行動である。

 なかなか行動と人格を切り離して考えることが容易でないのはよくわかる。私たちは「嫌い」の対象を特定の人格に当てはめていないと、「嫌い」という感覚を維持できないからなのだろう。
 尊敬を多用しようというのは、こうした切り分けをもう少し容易にできるようにした方が良いのではないかという考えに基づく。否定の感情を操作することは自分自身の内面であっても難しいこともあり、それよりは人格と切り離した行為を一つ一つ評価してみてはどうかということである。

 すると、これまで目を向けようとできなかった新たな発見を多く出来るのではないかと思う。それは自分にとって大きな意味を持つことであろう。嫌うための理由は数々あるだろうが、一つには自分と似ているということが嫌悪の対象となることがある。他方で、あまりにリズムが違いすぎることが対象になることもある。
 どちらにしろ、自分が見たくないものが見えてくるのではないかと思っている。それは、少々苦々しい経験かもしれないが決して損になることではない。

 尊敬できるということはイコール誰に対しても素直に接することができるようになるという利点を備えている。そして、人との接し方が多少なりとも変わるのではないだろうか。おそらく良い方向に変化すると私は思う。
 これは普段の生活においてでもそうではあるが、ヘイトや嫌○○などという行動を抑制する上においても意味があることであろだろう。良いは良い、悪いは悪い。全ては人格(あるいは国家としての擬似人格)から生まれるものではあるが、その悪い面のみを人格に投影してもそれは本当の人格ではないのだから。