Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

悲しい卵かけご飯屋の乱立

別にその現象を全て否定するつもりはさらさら無いのだが、世の中もここまで来たのだな感慨深さと悲しさの入り交じった不思議な感覚が私の心の中には存在する。
卵かけご飯屋の何かを論ずるほどに足繁く(というか全く)通った事もないし、その奥行きの深さを知っているわけでもない。ただ、あくまで社会現象としてのこうした動きを見るに付け、デフレも許容できる範囲では行き着くところまで来たのだなぁと感じた次第なのだ。
そもそも、牛丼屋や格安居酒屋の広がりは短期的には安い店による消費者としての一次的なメリットを享受することに寄与するが、逆に言えばそのことにより経済の低迷に対するマイナス側の耐性がつくことも意味している。要するに、給料が上がらなくても何とか生きていけるというセイフティーネットとしての存在を受け持っているように見えるが、同時に経済低迷により社会が受けている損失をこれらの存在が覆い隠しているのではないかと言うことでもある。

デフレは社会の縮小を意味するが、その影響は全体を徐々に縮小させるのではなく局部に集中する。つまり、大部分の人はその問題性を体感することはない。社会のどこかで生じている重大な問題を、それでも他人事のように眺めているに過ぎない。もちろん、その影響を実感した時にはもうお終い。。と言うのはちょっと言葉が過ぎるが、抜け出せない泥沼に嵌ってしまっている。デフレは、そうした底なし沼をあちこちに作っているような状況である。すなわち、総論賛成で各論反対を醸し出す世論の典型とも言える現象なのだ。
デフレの進行については既にいろいろなところで書かれていると思うし、詳細はそちらの情報によってもらえばと思うが、その結果として日本全体の国力が徐々に弱っており、そしてそれを一部の当事者を除き頭ではわかっていても体感で理解していないという状況である。
卵かけご飯屋は、食のバリエーションの一環として位置づけられないわけではないが、とは言えそのコストの安さが売りなのだから、デフレの最先端を突っ走っている。そして、おそらくその先には何もない。デッドエンドである。
デフレに対応するために、どんどんとコストダウンを図り生き残るための対処を社会は行ってきた。それ自体は政府とは別のセーフティネットとして機能してきたと思う。ただ、それがほぼ限界に達したというのがエポックとしての卵かけご飯屋の乱立ではないかと感じているのである。
だとすると、これまでは徐々に進行していたがその影響をバッファにより吸収してきた日本社会が、影響を吸収できなくなる時期が近づいているのかもしれない。もちろん、さらなる強靱さを日本社会が発揮できると思いたいが、外食産業におけるコスト面での限界値に達した後私達がさらに何が出来るかを考えると、やはり寂しさというか悲しさを感じずにはいられないのだ。