Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

遊びといじめ

遊びの範疇は幅広い。極論を言えば、殺人すら主観的には十分遊びになり得る。かつて今のように人権が確立していなかった頃には現実に遊びで殺人が行われていたし、今でも法の陰でそれが行われることがある。だから「遊び」と「いじめ」の間に二者択一など有りはしない。仮に「遊び」であっても状況次第で「いじめ」であり「犯罪」となることはごくごく当然のことである。
これは「遊び」の判断は主に当事者の意識により決定されるが、「いじめ」の判断は社会による判断が大きくものを言うことがあり、犯罪に至れば法による厳格な指標が存在する。一部には、「いじめ」かどうかが「いじめ」を受けた側による印象論で決まるように言う意見もあるが、私は被害者の心情を無視すべきではないものの、それが決定的になってはならないと思う。極論になってしまうが、痴漢冤罪事件の一番の問題は被害者の意見のみが唯一の判断材料になっているということでもある。
もちろん実際には客観的な証拠が少ないケースも多く、その立証は容易ではないだろう。そして、状況が不十分な状態において先走った容疑者捜しや加害者非難があってはならないと思う一方で、加害者の人権が過度に守られようとする現状にも確かに憂慮する点が少なくない。

客観的な証拠は、学校という閉鎖空間では生徒達の証言が主なものとなるのは当然である。学校側がそれを軽視しようとするのは、加害者と目される生徒の冤罪防止と言うよりはむしろ問題の広がりを抑制したいという感覚の方が強い。それは、なるべく客観的な状況証拠を積み重ねて問題を確認するという行為よりは、教師などの判断による主観的な判断を重視したいという考え方に基づいている。
すなわち、「遊び」という当事者の認識を重要視しようというものと基本的な構図が似ている。とすれば、学校側が自らを守ろうとしてする動きと加害者側の行動は自然と近いものになりやすい。どちらも真実の追究は自己にとって都合が悪く、感情論などの印象操作に終始する方が具合が良いのである。本来、いじめが全くの濡れ衣であるとすれば真実を突き止めるための調査を加害者側が望むのは自然な行動であろう。なぜならば曖昧な印象論では自らにかかる嫌疑を晴らすに十分なものでは無いからである。だとすれば、その際には学校側の狙いとは必ずしも一致しなくなる。学校側からすれば結論は曖昧でなるべく出ない方が良いのだから。
仮に濡れ衣だとしてもそれが発覚することで学校が特をすることはあまりない。正確に言えば、曖昧のままではなく自らが最終判断者となって他者からの追求を受けないことが一番の望みであろう。このような状況になったのは、教育を監視するものの存在が希薄であるからなのは間違いない。それは、まさに教育委員会という本来は現場の教育機関を監視指導しなければならない組織が、現場の教員組織に取り込まれてしまっていることがあるのであろう。

教育委員会のあり方について今回これ以上は触れないが、「いじめ」という言葉が持つ意味を曖昧にする事が結果的に加害者と学校にとってメリットがあるのが、現状における大きな問題点であろう。両者が運命共同体であり続ける(学校側の態度が変わらない)限り、同じような事はいくらでも繰り返される。メディアが報道する事により露骨なそれは姿を消すかもしれないが、単純により狡猾になるに過ぎない。いじめの根絶が不可能な事は誰もが知っているではないか。
いじめという存在にプレッシャーを与えるためには、学校側と加害者側が明確に対立するような構図を描く必要があるが、それは制度設計で対応可能だと思う。もっとも、その変更が教師の権利や自由を束縛する事は間違いないので、現実に進むかどうかはまだまだわからない。

あとは、社会が「遊び」であっても「いじめ」に認定されるのだという常識を広げる事が、その抑制には一つのくさびとなり得るであろう。